第4話:不器用な指先と、熱すぎるスープ
第2章:陽だまりの街と、小さな手
第4話:不器用な指先と、熱すぎるスープ
極寒の霊峰を背にしてから、二日の月日が流れていた。
山を降りるにつれて肌を刺すような吹雪は静まり、代わりに冷たくも柔らかな春の風が荒野を吹き抜けていく。永久凍土の白の世界から、徐々に芽吹き始めた緑の大地へ。
その境界線の上にひっそりと佇む『ネルヴァ宿場町』の街並みが見えたとき、ヒルデは心底から胸を撫で下ろしていた。
「……着いたな」
「む……」
ヒルデの隣で、ブカブカの黒い布を頭からすっぽりと被った少年 -エレボスが、短く唸り声を上げた。
霊峰の氷洞から連れ出したものの、エレボスの身体はあまりに小さく、かつ弱り切っていた。かつて世界を揺るがした大悪魔の威容はどこへやら、今の彼は10歳かそこらの幼い少年の姿であり、わずか数刻歩くだけで呼吸を乱し、膝を揺らしていたのだ。
(これまでは、一人で駆け抜ければ済む旅だったが……)
ヒルデはチラリと隣の小さな影を見下ろす。
自分の背丈の半分ほどしかない肩。大剣を振るうことと、生き残るための野宿しか叩き込まれてこなかったヒルデにとって、「自分より遥かに弱く小さな存在を連れて旅をする」ということは、まったく未知の領域だった。
とにかく、まずは拠点だ。
ヒルデは街の路地裏にある、古びてはいるが掃除の行き届いた安宿の門を叩き、銀貨を数枚差し出して二階の角部屋を借り受けた。
木製の扉を閉め、鍵をかける。
狭い室内には、少しきしみそうなベッドがひとつと、小さな丸テーブル、それに木製の椅子が二脚。
「……ふぅ」
エレボスは部屋に入ると同時に、背負っていた布を脱ぎ捨て、ベッドの端へへたり込むように腰を下ろした。
深く被っていたフードが外れ、銀白から黒へと変わるグラデーションの髪と、額にちょこんと生えた小さな黒い角、そして鮮やかな金と深紫のオッドアイがあらわになる。
「エレボス。まずはその角と目を隠す服を探しに行く。街の者に余計な疑いを抱かせるわけにはいかないからな」
「……好きにしろ。今の私には、衣類の一着すら生み出す魔力もない」
プイと横を向くエレボス。
大悪魔としての理屈や記憶は確かに残っている。だが、ヘメラの造った「人間の幼い器」と混ざり合って芽吹いた影響は、肉体だけでなく彼の精神にも色濃く及んでいた。感情を抑え込むタガが外れやすく、どこか子供っぽく意地を張ってしまうのは、脳と神経系が幼体そのものに引っ張られている証左だった。
ヒルデは「少し待っていろ」と言い残し、宿の近くにある古着屋へと足を運んだ。
店内には雑多に衣服が並べられている。ヒルデは胸の前で腕を組み、真剣な面持ちで棚を物色し始めた。
(子供の服……服など、今まで適当な革鎧か、実戦に耐えうる布を選んで着るだけだったが)
ヒルデの頭の中にある「服選びの基準」は、徹底して戦場と野宿を生き抜くための合理性のみで構成されていた。
一つは「刃や爪が通りにくい頑丈さ」。
二つ目は「返り血や泥がついても目立たない暗めの色彩」。
戦場で血痕や汚れが目立つ服を着ていると、敵にこちらの負傷箇所や疲労具合を一目で探られ、余計な隙を晒すことになる。おまけに、長旅で洗濯も手入れもできない環境下では、付着した血脂や泥で生地が急速に傷んでしまうのだ。
だからこそ、汚れの目立たない頑丈な暗色の服こそが最高の一着なのだと、ヒルデは疑っていなかった。
彼女は店内で最も生地が厚く、泥や血がつこうが気にならない深緑色の子供服 -それも、荒仕事に耐えうる分厚い革補強がついた上着とズボンを手に取った。これなら吹きすさぶ風にも耐えられるし、擦り切れる心配もない。完璧な選択だと、ヒルデは自信満々に金貨を支払ったのだった。
-しかし。
「……なんだ、これは」
宿屋に戻り、買い求めた服を着せられたエレボスは、全身を硬直させて呆れ果てたような声を上げた。
厚手の革補強が災いし、幼いエレボスの身体に対して服が固すぎるのだ。袖は太すぎて肘が曲げづらく、首元は硬い襟ぐりが皮膚に当たって真っ赤に擦れている。まるで小さな子供に中世の重甲冑を着せたような、歪で動きづらい姿になってしまっていた。
「おかしいな……一番頑丈で、手入れのいらない服を選んだのだが」
「バカなのかお前は!? 頑丈なら良いというものではないだろう! 首が痛いし、肘が曲がらん!」
「む……っ。だ、だが、旅の衣料とはタフであるべきだぞ」
「サイズも合っておらん! ほら、袖がこんなに余っている!」
バンバンと硬い袖を振り回して怒るエレボスに、ヒルデはタジタジとなった。
焦ってエレボスの元へ寄り添い、「す、すまん。袖を折れば……」とゴツゴツとした傷だらけの手で袖口を捲り上げようとするが、大剣を握り慣れた彼女の指先は力加減がうまく噛み合わない。
「痛っ! 指を挟むな!」
「あ、すまない! 力を抜いているつもりなのだが……」
「……お前は剣を握る以外、何もできないのだな」
ジロリとオッドアイで睨みつけられ、ヒルデはぐうの音も出ず固まった。
かつてなら威厳に満ちた冷徹な皮肉を吐いていたはずの相棒が、今は小さな身体をぷりぷりと揺らし、まるで駄々っ子のように感情を剥き出しにしている。幼い器に引っ張られたエレボスのその変化に、ヒルデは戸惑いつつもどこか妙な愛おしさを覚えていた。
(くっ……服選びとは、これほどまでに難しいものだったのか……)
自分の不器用さに密かにショックを受けつつも、ヒルデは「とにかく、腹が減ってはなんとやらだ」と話題を逸らすように、宿の階下から買ってきた温かいスープと硬いパンをテーブルに並べた。
湯気が立ち上るスープは、牛肉と野菜を煮込んだ香ばしい匂いを漂わせている。
前作の決戦以来、世界の毒(咎)以外のまともな食事を摂ってこなかったエレボスが、その匂いにピクリと耳を澄ませるように鼻を鳴らした。
「……食べるか?」
「……フン。身体を維持するための燃料補給だ。いただく」
エレボスは椅子にちょこんと座ると、木製のスプーンを握り、そのままなみなみと注がれたスープを掬って口へと運んだ。
「あ、待てエレボス、それは――」
「アッヂッ!?」
ヒリッ、と激しい熱さが舌を焼き、エレボスはスプーンを落としそうになりながら口を押さえて悶絶した。
「あ、あつっ...! 舌が……舌が燃える……っ!」
「す、すまん! 出来立てだったのを言い忘れていた!」
ヒルデは慌てて水差しからコップへ水を注ぎ、エレボスへ差し出す。エレボスは涙目になりながら水を一気に飲み干し、「殺す気か人間……!」とハァハァと荒い息を吐いた。
幼体ゆえに痛覚や感覚過敏も容赦なく脳へ伝わるらしく、その目にはうっすらと涙すら浮かんでいる。かつて世界を絶望させた悪魔の面影などどこにもない、ただの泣きじゃくりそうな子供の顔だ。
「すまない……いつもなら冷めるまで放置するか、そのまま飲むから、配慮が足りなかった……」
ヒルデは本気で落ち込んだように肩を落とした。
スープの熱さすら確認せず、そのまま差し出してしまった己の愚かさ。戦場で干し肉を噛み砕くような生き方しかしてこなかった弊害が、ここに来て全て裏目に出ている。
「……はぁ」
エレボスは呆れたように小さく息を吐くと、涙目のまま、冷めた水で冷やした自分の舌を擦った。
そして、目の前で巨大な身体を縮こまらせ、心底申し訳なさそうに眉を下げている白髪の女騎士をじっと見つめた。
身体の幼さに引きずられた精神は、理屈では抑えきれない「甘え」や「素直さ」を無意識に呼び覚ましていた。
「……おい」
「……なんだ」
「ふーふー、しろ」
「え?」
エレボスは顔を真っ赤にしてフイッと背けながら、木のスプーンをヒルデの方へと押しやった。
「熱いなら、冷ませば良いのだろう。お前を冷ませ。……それくらいは出来るだろう」
不機嫌そうに突っ張ってはいるが、その要求は完全に保護者を頼る幼子のそれだった。
その言葉と仕草に、ヒルデは一瞬目を丸くした。
そして、自分の硬い指先で慎重にスプーンを握り直すと、スープを掬い、破顔しそうな表情を必死に押し殺しながら、端正な唇を寄せて「ふー……ふー……」と息を吹きかけた。
「……ほら。これなら大丈夫なはずだ」
差し出されたスプーンを、エレボスは半信半疑で口に含んだ。
ほんのりと温かいスープが、舌の上でゆっくりと広がる。
牛肉の豊かな旨味、じっくり煮込まれた野菜の甘み、そして、ほんのわずかに残るヒルデの呼気の温もり。
「……どうだ?」
恐る恐る尋ねてくるヒルデに対し、エレボスはゴクリとスープを飲み込むと、素っ気なく言った。
「……ぬるい。まあ、さっきよりはマシだ」
そう言ってそっぽを向いたものの、真っ赤になった耳と、我慢しきれずゆるんでしまう口元を隠し通すことはできていなかった。
それから二人は、不器用な手つきでスープを分け合い、硬いパンをスープに浸して柔らかくしながら静かに食を進めた。
着替えも、食事も、何ひとつスマートにはいかない。剣しか握ってこなかった女騎士と、幼い身心に困惑しながらも温もりに揺れる元悪魔。
(……先は長そうだな)
ヒルデは、スープを美味しそうに口へ運ぶ小さな相棒の横顔を眺めながら、密かにそう言った。
だが、その胸の奥に広がっていたのは、敗北感ではなく、どこか痒くなるような温かな「手応え」だった。
(第5話へ続く)




