第3話:巡礼の始まり
第1章:凍てつく芽吹きと、長い旅の終わり
第3話:巡礼の始まり
氷洞の中は、恐ろしいほどの静寂に満ちていた。
外の猛吹雪が上げる怒号は遠のき、ただ天井から滴り落ちる水滴が氷床を叩く「コト、コト」という寂しげな音だけが暗闇に響いている。壁面を覆う幾千年の永久凍土が微かな青い光を反射し、足元を仄暗く揺らめかせていた。
ヒルデは一歩、また一歩と氷の床を踏み進む。
左手首の古びた包帯の奥——
脈動はもはや狂おしいほどの熱を帯び、彼女の心拍と溶け合うように、力強く、けれどいとおしいほど拙く打ち鳴らされていた。
二年間。ただひたすらにこの鼓動だけを信じて歩んできた。
東の極北から泥の街、生き地獄のような廃墟群まで。世界のどこにいるかもわからぬ影を追い、膝を折りそうになる夜を幾度越えてきただろう。
だが、その暗い旅路のすべてが、今この瞬間のためにあったのだと確信する。
(……この奥だ)
洞窟の最奥。聳え立つ氷柱が立ち並ぶ広い空間へ踏み入れたとき、その「影」はそこに佇んでいた。
冷たい岩の陰。大きすぎる深いフード状の布を頭からすっぽりと被り、凍えるように身体を小さく丸めている影。
ヒルデの足音を察知したのか、その影がびくりと肩を跳ね上げ、ゆっくりと振り返った。
布の隙間から覗いたのは——
かつて世界を絶望の底に突き落とした大悪魔の異形ではない。
金と深紫のオッドアイを鋭く見開き、威嚇するようにこちらを睨みつける、10歳かそこらの幼い少年の姿だった。
額からは小さな黒水晶のような角がちょこんと生え、根本の銀白から毛先にかけて夜の闇へと溶けるグラデーションの髪が、寒さで震える小さな肩に散っている。
「……去れ」
高く、幼い声が暗い洞窟に響いた。
声にかつての威厳を乗せようと必死に突っ張っているが、その声帯はあまりにも幼く、声の端々は寒さと怯えでかすかに震えていた。
「私は世界の毒の残滓……神の残した呪われた器だ。お前たちの生きる世界に、私の居場所などどこにも存在しない。立ち去れ、人間……!」
少年——いや、エレボスは必死に威圧の魔力を放とうと試みた。だが、その足元から伸ばしかけた影の鎖はチラチラと弱々しく揺らめき、瞬く間に霧散してしまう。
一切の毒を削ぎ落とされた純粋な生命の種子。それがヘメラの造った「無色の器」と混じり合い、システムとしてエラーを起こして芽吹いた、あまりにも小さく、脆い生命。
ヒルデは足を止めた。
かつての世界の脅威としての面影を残しながらも、寒さに震え、ブカブカの布を纏って強がるその姿。
あまりの落差に呆れる気持ちと、それ以上に胸の奥から押し寄せる途方もない愛おしさが、彼女の視界をほんの少しだけ熱く滲ませた。
ヒルデは大剣の柄から完全に手を離すと、静かに歩み寄った。
「な、なんだお前は...! 近寄るなと言っているだろう!」
エレボスが小さく後ずさりし、幼い背中が冷たい氷の壁にぶつかる。
その目の前で、ヒルデはそっと膝をつき、幼い少年と完全に目線をあわせた。
「……探したぞ」
「な……っ」
驚愕しオッドアイを見開くエレボスの頭に、ヒルデは傷痕だらけの温かい「人間の手」を優しく乗せた。
フードの上から、その小さな頭を包み込むように撫でる。
かつては世界中の咎を喰らい、自分を暗闇の深淵へと導いた冷たい影。
それが今、傷だらけの温かい自分の手の中にすっぽりと収まっている。
あの日、化け物となった自分を抱きかかえてくれた影へ、今度は自分が温かな手を差し伸ばすのだ。神の道具でもなく、世界の毒でもない。ただの一人の命として、この手で抱き上げるために。
「言ったろう」
ヒルデは口元に万感の想いを込めた笑みを浮かべ、前作のあの朝光の中で囁いた約束を、目の前の幼き相棒へ投げかけた。
「どれほど小さくなろうと……逃げ切れると思うなよ」
「——っ!?」
撫でられた頭の感触と、伝わってくるあまりにも温かな体温に、エレボスは息を呑んで絶句した。
毒づく言葉も、突っ張るための威厳も、すべてがその温もりの前に霧散していく。幼いオッドアイの奥に揺れたのは、孤独な闇の中でずっと待ち焦がれていた戸惑いと安らぎだった。
ヒルデは包帯の上から左手首を愛おしくさすると、躊躇うことなく手を伸ばし、エレボスの小さく冷え切った手首をギュッと握り締めた。
-トクン。
互いの血の水脈が触れ合った瞬間、身体の奥でかすかな熱が脈打ち、二人の足元で漆黒の影が揺れて、確かにひとつに重なり合った。
それは、かつて世界を狂わせた呪縛の契りではない。絶望の淵をともに潜り抜けた二人が、再び命を分かち合う確かな絆の証だった。
「……また、泥臭い旅になりそうだな」
手首を握られたまま、エレボスは顔を真っ赤にしてフンと鼻を鳴らした。だが、その小さな指先は、振り払うことなくヒルデの手を小さく握り返していた。
「ああ。美味いものを食って、くだらない街を歩き、世界を知る旅だ」
立ち上がった白髪の女騎士と、その足元に寄り添う小さな影。
だが、二人はまだ知らない。ヘメラの遺産を狙う『聖導機構』の暗雲が、二人の行く手に忍び寄っていることを。そしてその脅威の刃が、遠く離れた懐かしい仲間たちの待つ「開拓都市」へも伸びようとしていることを。
過酷な運命は、まだ終わってはいない。
けれど、もう二度とこの手を放すことはない。
どこまでも広がる『境界なき地平』へ向かって -二人だけの新たな『巡礼』が、今ここから静かに、力強く動き出した。
(第1章・完/第2章へ続く)




