第34話:『世界で一番あたたかいスープ』
第34話:『世界で一番あたたかいスープ』
瓦礫の隙間から差し込む朝日が、崩れ去った大聖堂の地下を優しく照らしていた。
『ヘメラの真の核』の粉砕とともに、エレボスの身体を蝕んでいた異様な黒銀の波長はきれいに消え失せていた。背中に刻まれていた不気味な聖痕も失われ、そこにいるのは神の器でも、魔界のトップのスペアでもない -少し背の低い、どこにでもいる「一人の人間の少年」だった。
「……あ……」
エレボスが自分の小さな両手をかざし、じっと見つめる。
指先は泥で汚れ、すり傷から血が滲んでいた。冷たい神威の巡りではなく、脈打つ心臓が体中に暖かい血を送り出している感覚。痛みがあり、体温があった。
「消えたんだな……あんな禍々しい宿命は、全部」
ヒルデが傷だらけの大剣を鞘へ納め、肩で息をつきながら壁に背をあずけた。重装甲冑はボロボロで、全身傷だらけだったが、その瞳は静かに澄んでいた。
エレボスはゆっくりと向き直り、クラリスを見つめた。
元・最高位聖女クラリス。彼女もまた、泥と返り血に塗れ、高貴だった法衣の面影すら残していない。
クラリスは静かにエレボスの前に歩み寄ると、その場に膝をついた。
「……申し訳ありませんでした」
震える声で、クラリスは深く頭を下げた。
「私の浅はかな野望と傲慢のために、あなたを道具として扱い、苦しめ、追い詰めた……。どんな言葉を重ねても、私の犯した罪が消えることはありません。許してほしいなどと、都合の良いことは言いませんわ」
頭を下げたまま動かないクラリスの肩が、微かに震えていた。
エレボスは不器用に自分の頭をかくと、そっと手を伸ばし、クラリスの泥のついた袖を小さく引っ張った。
「顔を上げて、クラリス」
「……え?」
「わたしを『神の器』として追い詰めたのは、確かに機構だった。……でも、わたしをあの冷たい暗闇から引き上げて、手を取ってくれたのは、ヒルデと……クラリス、あなただったんだよ」
エレボスは照れくさそうに、けれどまっすぐな瞳でクラリスを見つめ返した。
「許すとか許さないとか……よくわからない。でも、わたしと一緒に戦ってくれて……手をつないでくれて、嬉しかった。だから……もういいんだ」
「エレボス……っ」
クラリスの瞳から涙が溢れ出し、石畳にぽたりぽたりと波紋を作った。過ちと向き合い、泥を幾度も幾度も這った末に届いた少年の許し。その温もりが、彼女の傷ついた心を静かに包み込んでいった。
ヒルデはその光景からふいっと視線を逸らし、大剣の柄を拳でトンと叩いた。
「……長話はそこまでだ。二人とも、立つなら自分の足で立て。……腹が減って、もう動かん」
ぶっきらぼうな声の裏にある、不器用な優しさ。クラリスは涙を拭い、エレボスの手を取りながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……ええ。戻りましょう、わたしたちの場所へ」
*
崩落の危機を脱し、活気を取り戻しつつある地下バザール。
ガドたちの隠れ家には、香ばしい肉の焦げる匂いと、スパイスの芳醇な香りが満ちていた。
「無事だったか、お前たち!」
大鍋の前で木杓子を振るっていたガドが、重々しくも温かい声で三人を出迎えた。ボリスやバザールの仲間たちも集まり、静かに、しかし力強くその生還を叩き出す。
「ほらよ。特製の煮込みスープだ。ツケはきっちり溜まってるんだ、腹いっぱい食って命を繋げ」
ガドが差し出した木碗には、クズ肉の旨味がたっぷり溶け出し、油と香辛料が浮いた、荒々しくも力強いスープが注がれていた。
木碗を受け取ったクラリスは、深く息を吐き、静かにスープを口へと運んだ。
ゴクリ、と一口飲む。
喉を通る強い塩気と肉の熱さ。それは、完璧な無菌都市の料理には決してない、生きている実感そのものの味だった。
「……美味い。……やっぱり、美味いですわ」
クラリスの頬に涙が伝う。だが今度の涙は、絶望の涙ではなかった。泥の付いた顔を拭おうともせず、彼女はどこか清々しい笑みを浮かべていた。
「涙を落としたらスープの味が薄まるぞ、クラリス」
自分の木碗を豪快に傾けながら、ヒルデがボソッと言い捨てる。
「落としてなどいませんわ! 香辛料が目に沁みただけです!」
「ふふ、わたしのも美味しいぞ。ガド、おかわりある?」
「おう、いくらでもあるぞ!」
煮込みの湯気の向こうで、ささやかな言葉が交わされる。
完璧な神も、高貴な聖女もいない。ただ泥に塗れ、傷を抱えながら、温かい一杯を囲む「人間たち」の時間が、そこには確かに流れていた。
(最終話へ続く)




