第29話:『無菌都市の裏通り』
第29話:『無菌都市の裏通り』
湿り気のない、冷ややかな風が吹き抜けていた。
地下バザールの熱気と乱雑な喧騒からは遠く離れた、聖都の最外郭。クラリスの案内で暗渠の鉄格子を押し開き、地上へと這い出たヒルデは、思わず目を細めた。
「……これが、聖都か」
視界に広がっていたのは、寸分の狂いもなく整列した白銀の建造物群だった。
石畳には落ち葉一枚、チリひとつ落ちていない。かつて崩落の峡谷で浴びた泥や血の臭いはどこにもなく、漂ってくるのは無機質で清潔な、どこか鼻を刺す薬臭さだけだった。
何より異様だったのは、そこを行き交う「人々」の姿だった。
人々は一様に、白を基調とした隙のない衣服を纏い、一定の速度で歩を進めている。転んで膝をすりむいた子供がいても、声を上げて泣くことはない。母親らしき女性もまた、焦りや愛おしさの混じった表情を見せることなく、機械的な動作でその手を引き、静かに歩き出す。
争いもない。悲鳴もない。だが、そこには誰かの微笑みも、活気ある声の交わりも存在しなかった。
「……痛みや悲しみ、恐怖といった『不快な感情』を聖導波長によって抑制・排除された街――それが聖都です」
泥の跳ねた外套のフードを深く被り、クラリスが静かに呟いた。
「怪我の苦しみも、他者との摩擦による怒りもありません。ですが同時に……何かを愛おしく思う情動も、温かい食べ物を口にしたときの歓喜も、彼らには存在しない」
クラリスの視線が、無表情に通り過ぎていく住民たちに向けられる。
かつて自分が「不潔で愚かな下界の人間ども」と見下し、排除しようとしていた泥臭い生の日常。そして、自らが「あるべき完璧な世界」として誇りに思っていた、この白銀の無菌都市。
(私は……こんな空っぽな世界を正義だと信じ、あの子の肉体と心を痛めつけていたというの……?)
脳裏に浮かぶのは、地下の隠れ家で出された、油と香辛料の浮いたあの泥臭いスープの熱さだ。
あの一杯のスープが教えてくれた、生きていくことの重み。痛む体で命を繋ぎ、温かさに涙を流したあの瞬間こそが、人間としての本当の「生」だったのだと、今のクラリスにははっきりと理解できた。
「クラリス、次だ。どっちへ行く」
ヒルデの低い声に引き戻され、クラリスは小さく息を吸い込んだ。
「大聖堂へと通じる中央回廊は、常時『黒衣』の警戒網が敷かれています。ですが……かつて聖女として施設を管理していた頃、廃棄物や物資を運搬するために使われていた地下水道の旧ラインを把握していますわ」
「助かる。頼むぞ」
「……ええ」
二人は物陰を縫うように移動し、整然としすぎた街並みの隙間にある、重厚な金属のハッチへと滑り込んだ。
暗い地下通路へと足を踏み入れながら、クラリスは己の胸元にそっと手を当てる。
神聖な光を失い、ただの冷たい鋼となった細身の聖剣。だが、その柄を握る手には、かつての驕りではない、泥を這う者としての確かな力が籠もっていた。
(エレボス……待っていなさい。私たちが、必ずあなたを連れ戻します――)
(第30話へ続く)




