第28話:『破滅の道標』
第28話:『破滅の道標』
地下バザールの薄暗い一角に、重苦しい静寂が落ちていた。
大鍋から立ち昇るスープの湯気が、湿った空気に溶けて消えていく。木碗を干し終えたクラリスは、泥と涙を拭った顔を静かに上げ、壁に背を預けるヒルデを見つめた。その瞳からは、かつて聖女として浮かべていた空虚な光彩線が消え、どこか険しくも確かな意思が宿っていた。
「……エレボスの肉体が崩壊しない理由、解かりますか」
唐突なクラリスの問いに、ヒルデは無言で腕を組んだまま促した。
「あの『黒金の祭壇』で、あなたが触媒の波長を利用し、自身の肉体と大剣へ影の魔力を循環させた……。それにより、エレボスの体内で暴れ狂っていた影の脈動は一時的な『定着』を見せました。つまり今の彼は、肉体の内側から弾け飛ぶ危険性だけは免れています」
「……なら、あいつは無事なのか」
「いいえ。むしろ事態はより最悪な段階へと移行しました」
クラリスは力なく首を振る。
「回収部隊『黒衣』が動いたのは、まさにその『定着』を確認したからです。あの方々の狙いは……聖都地下の最深部に封印されている『ヘメラの真の核』。あれと、完全に安定したスペア肉体――エレボスを融合させること」
ガドが重い口を開いた。
「融合……だと? それが行われたら、その少体はどうなる」
「……『エレボス』という意識、記憶、存在そのものが綺麗さっぱり塗り潰されます」
クラリスの声が微かに震える。
「ヘメラ様の真の神威が降臨するための、ただの肉の器へと変貌するのです。融合の儀式が完了すれば……二度と、彼の自我が戻ることはありません」
「……タイムリミットは」
ヒルデの低い声が部屋の空気圧を跳ね上げた。
「肉体が安定期に入った以上、いつ儀式が始まってもおかしくありません。遅くとも……あと数日」
言葉が終わる前に、ヒルデは壁を背で押し弾き、足元に転がっていた傷だらけの大剣を引き寄せた。体に巻きついた包帯が引きちぎれ、血が滲み出るのも構わず、柄を握りしめる。
「行くぞ。聖都へ」
「待ちなさい! その傷で何ができるというのです! 聖都の防衛網は、あなたひとりで突入してどうにかなる規模ではありませんわ!」
「だったら、指をくわえてあいつが消えるのを見てろってのか!?」
激昂するヒルデの目の前に、クラリスがすっと立ち塞がった。
かつての絢爛な法衣はなく、泥に汚れた衣服のまま。しかし、その瞳には逃避の色は微塵もなかった。
クラリスは静かに膝をつき、泥のついた石畳の上に深く、深く頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
「な……何やってんだ、お前」
「エレボスを『器』として追い詰め、こんな事態に引きずり込んだ最大の要因は……私にあります。完璧な成果を求め、自らの野望のために彼を追い詰めた……その罪は、一生消えません」
頭をつけたまま、クラリスの絞り出すような声が響く。
「私はもう、聖女ではありません。守るべき信仰も、従うべき組織も失った……ただの泥に塗れた人間です。ですが……聖都の内部構造、警備の巡回ルート、そして大聖堂地下へ続く隠された暗渠――それを誰よりも知っているのは、私です」
クラリスが顔を上げた。その頬にはまだ泥の痕が残っていたが、不屈の意志がみなぎっていた。
「私を……連れて行きなさい。私の知恵と魔術の全てを、あなたに預けます。……エレボスを、あの無菌の地獄から連れ戻すために」
ヒルデは黙って見下ろしていたが、やがて大剣を背の鞘へと叩き込んだ。
「あいつを奪い返したら……ちゃんとお前から直接謝れよ」
「……ええ。望むところですわ」
重装騎士と、すべてを失った元・聖女。
かつて泥と光で決定的に袂を分かつはずだったふたりが、ひとりの少年を奪還するため、深く静かに手を結んだ。
(第29話へ続く)




