第27話:『泥の中のスープ』
第27話:『泥の中のスープ』
鳴りやまぬ落石の重音と、地の底から湧き上がる灰塵。崩壊を深める落底の闇の中で、ヒルデの意識は濁りかけていた。
手の中には、もうエレボスの温もりも影の気配もない。ただ、冷たい泥の感触があるだけだった。
「……あ、……ぁ……」
動かない体に鞭を打ち、血を吐き出しながら地を這う。肘の皮が破れ、膝の甲冑が砕けて肉に食い込もうと、ただ前へ進んだ。その数メートル先、瓦礫に半ば埋もれるようにして横たわる黒髪の女 -元・聖女クラリスの姿があった。
聖剣は砕け、背の光輪も消え失せ、今や『黒衣』に見捨てられたただの肉塊。
「……く……そっ……」
ヒルデは震える手で、クラリスの潰れた装飾の襟首を力任せに掴み寄せた。
(置いて……いけるか...! 誰一人……死なせやしない……ッ!)
エレボスを奪われた絶望の胸の奥で、消えかかった業火のような執念がくすぶっていた。ヒルデは気を失ったクラリスの半身を引きずり、絶え間なく落ちてくる岩片を間一髪で交わしながら、崩壊する坑道の暗渠へと這い進んでいった。
*
-そこは、熱気と人煙が立ち込める地下バザールの片隅、ガドたちが拠点を置く古い隠れ家だった。
荒い織物の毛布の上で、クラリスは唐突に跳ね起きるように目を覚ました。
「はっ……ぁ、くっ……!?」
全身を走る激痛。だがそれ以上に、激しい混乱が彼女の脳裏を駆け巡る。
自分の胸元を見下ろす。聖女の証たる純白の法衣は泥と血で黒く汚れ果て、肌に宿っていた神聖な光輝は一切失われていた。
「ここは……? 私は……なぜ……」
「目覚めたか」
部屋の壁に背を預け、全身に痛々しい包帯を巻きつけたヒルデが、静かに腰を下ろしていた。隣ではガドが、使い込まれた大鍋の前に立ち、木杓子で静かに煮込みを混ぜている。
クラリスの頭の中に、最後の記憶が蘇る。
大司教直属の『黒衣』-彼らが自分に見向きもせず、ただ用済みのゴミとして切り捨てて去っていった冷徹な光景。
「あ……ああ……ッ! 私は……切り捨てられた……? 機構を動かしていたはずの私が……用済みだと……!?」
クラリスの顔が悔しさと絶望で激しく歪む。自分が利用し、君臨していたはずの仕組みから、一瞬にして足蹴にされた事実が彼女のプライドを破砕していた。
「なぜ...! なぜ私を助けたッ!?」
クラリスは毛布を跳ね除け、痛む体でヒルデに掴みかからんばかりに叫んだ。
「殺せばよかったでしょう!? 惨めに生き残らせて何になるの!? 力を失い、野望も、存在価値も奪われて……こんな泥の中で生きろというの!? 殺しなさいよ! 早く私を殺しなさいッ!!」
ヒステリックな悲鳴が部屋に響き渡る。涙と汗で泥の染みついた顔をくしゃくしゃにし、クラリスは叫び続けた。
ヒルデは黙ってその叫びを受け止めると、やがて短く息を吐き、静かに言った。
「生きてりゃ……腹が減るだろ」
「は……?」
ガドが黙って、湯気の立つ木碗をひとつ、クラリスの前に差し出した。
そこに並んでいたのは、聖都の上等な精進料理でもなければ、神聖な儀式で与えられる清らかなパンでもない。クズ肉の旨味が溶け出し、ギラギラとした油と香辛料が浮いた、荒々しくも力強い特製スープだった。
「食え、クラリス」
ヒルデは自分の足元にある同じ木碗を掲げてみせた。
「お前が求めていた高高としたものなんてのは、あの深淵で死んだんだよ。……だがな、お前自身はまだ生きてる。息をして、血を流して、ここにいる」
「そんな……そんな泥まみれの生になんの意味が――」
「意味なんて後から探せ。今はただ、胃袋に食べ物を突っ込んで命を繋げ。……生きてなきゃ、悔やむことも、怒ることもできないんだからな」
差し出されたスープから香る、濃厚な肉汁と油の匂いがクラリスの鼻腔をくすぐる。
極限まで消耗しきった体が、本能のままに胃袋を収縮させ、キュウと鳴った。
クラリスは震える両手で木碗を受け取った。重く、温かい熱が、冷え切った掌からじわじわと体へ伝わっていく。
「こんな……こんな汚らわしいものを……」
拒絶の言葉を口にしながらも、彼女の手は木碗を口元へと運んでいた。
ゴクリ、と一口飲んだ。
刺激的な塩気と、深い肉の旨味、香辛料の熱さが、乾ききった喉を通り、全身の細胞へと染み渡っていく。聖都の精巧で淡白な料理とはまるで違う、どこまでも泥臭く、しかし力強い「生の味」だった。
「……っ」
ふた口、三口。吸い寄せられるように、クラリスは夢中でスープを啜った。
「あ……う……ぅ……っ」
溢れ出た涙が、頬についた泥を拭うように伝い落ち、スープの表面にぽたりと波紋を作った。
「……美味い……っ」
喉の奥から絞り出すような嗚咽とともに、言葉がこぼれ落ちる。
「……美味いよぉ……っ! うあぁぁぁぁぁぁっ……!!」
木碗を抱え込み、子供のように声を上げてクラリスは泣き叫んだ。泥と涙で顔をぐしゃぐしゃに汚しながら、ただ無心に、差し出された温かいスープを胃袋へと流し込んでいく。
高揚した野望に踊っていた「聖女クラリス」は、崩落の底で死んだ。
今、泥を幾度も這い、温かさに涙し、生に与かる「一人の人間」として、彼女はこの地下の隠れ家で産声を上げたのだった。
泣きじゃくるクラリスの背中を、ヒルデは何も言わずにただ見つめていた。
その拳は、固く固く握りしめられている。
(待ってろ、エレボス。……絶対に、奪い返してやる)
泥の中のスープの熱さが、静かな決意の炎となって、絶望の淵に立つ者たちの胸の奥で灯り始めていた。
(第28話へ続く)




