第23話:『聖女の境界線』
第6章『崩落の深淵、解き放たれる陰影』
第23話:『聖女の境界線』
呼吸をするたび、肺の奥が焼けるように熱かった。
「は……っ、ふ……っ!」
重装甲の隙間から滲み出た汗が、皮膚を滑り落ちていく。ヒルデは大剣の柄を握り直し、膝をつきそうになる脚を力任せに踏みしめた。
『黒金の祭壇』――「西の崩落の峡谷」の最深部に位置するその場所は、陽の光など一切届かない漆黒の空洞だった。古代の魔術的波長が充満する空間全体が、細かく、微かに揺れている。
「……見苦しいですわね、泥の犬」
頭上から落とされたのは、氷のように冷ややかな声だった。
宙に浮く巨大な岩の破片の上に、ひとりの少女が立っている。純白の法衣に、金糸で編まれた絢爛な刺繍。クラリス。かつて「聖都の宝」とまで称された最高位の聖女。
だが、その背後にうごめいているのは、白銀の光などではない。
ヘメラの残滓 -かつて魔界の頂点に君臨した邪神の魔術波長が、脈打つ黒銀の光輪となって彼女の背後に渦巻いていた。
「ヘメラ様の神威をその身に宿しながら、このような不潔な場所で身を丸めるなど……。器としても、あまりに無様」
クラリスが細身の聖剣を軽く振るう。
瞬間、空気を引き裂く甲高い音が鳴り響き、ヒルデの足元が爆発した。
「ぐっ……!」
衝撃波だけで装甲の表面が削れ、火花が散る。ヒルデは大剣を盾代わりにし、なんとかその場を踏みとどまった。だが、真の絶望は自らの背後にあった。
「う、あ……あぁああっ……!」
「エレボス!」
祭壇の中央で、少年 -エレボスが体を折り曲げ、地面に爪を立てて悶絶していた。
峡谷全体に漂う古代魔力と、祭壇が発する強烈な干渉波。それが、エレボスのスペア肉体の中で眠っていた「拒絶反応」を限界まで引き上げていた。
彼の首筋から、腕から、胸元から。黒い不気味な影痣が血管のように浮き上がり、肌を裂くように暴走を始めている。影の魔力が収束を失い、黒い霧となって彼の肉体から肉を削ぐように吹き出していた。
「あ……が……ヒル、デ……逃げ……て……っ、僕の身体が……弾ける……!」
「馬鹿言うな! 誰が逃げるか、ここまで来い!」
ヒルデは叫びながらエレボスへ駆け寄ろうとするが、その頭上から光の槍が突き刺さる。
ドガァァン!
「よそ見をして良いとお思いで? 不潔な女」
煙の中から立ち現れたクラリスの顔には、聖女としての慈愛など微塵もなかった。あるのは、狂信に塗れた歪んだ悦びだけだ。
「可哀想に。不完全な器ゆえの崩壊ですわ。ですがご安心なさい、エレボス。……いいえ、『ヘメラ様の器』よ」
クラリスは、苦悶に満ちたエレボスを見下ろし、細い唇を吊り上げた。
「この祭壇で、あなたの不完全な肉体が恐怖と苦痛によって熟すのを……私はずっと、待っておりましたの」
(第24話へ続く)




