第22話:『絶壁の聖女』
第22話:『絶壁の聖女』
爆音と叫喚が、崩落の峡谷全体を揺らしていた。
燃えあがるテント、砕け散る岩塩の建造物、そして踏みにじられていく市井の人々。
第3坑道の暗がりへと駆け込んだヒルデとエレボスは、崩落の衝動に耐えながら絶壁の隙間を登りつめ、峡谷の中腹に位置する広大な崖の棚へと躍り出た。
眼下に広がる無法都市バザールは、すでに白銀の爆炎と黒煙に包まれた地獄絵図と化している。
ガドたちハンターの抵抗の咆哮も、圧倒的な魔導兵器の掃射音の中に、ひとつ、またひとつと呑み込まれて消えていく。
「……ガド……ボリス……」
エレボスは立ち止まり、爪が肉に食い込むほど拳を強く握り締めた。
自分の命を繋ぐために泥を這い、血を流して戦う人間たちの姿。その熱い生き様が、胸の奥で燻り続けている。
「止まるな、エレボス! 前を見ろ!」
ヒルデが大剣の柄を握り直し、怒号を上げた――その直後だった。
風が、止んだ。
黒砂の嵐も、炎の爆炎も、人々の悲鳴すらも、まるで世界の時間が凍りついたかのように一瞬で引きちぎられた。
空気が凍てつき、肌を刺す圧倒的な魔力圧が、峡谷の最上層から垂直に振り降ろされる。
ふたりが息を呑んで見上げた絶壁のフチ。
月光を背景に、ひとりの少女が静かに佇んでいた。
純白と銀の刺繍で飾られた聖衣を纏い、夜風に金髪をなびかせる可憐な姿。
聖導機構の最高審問官――クラリス。
その白皙の頬には、まるで幼子のように愛らしく、清廉な微笑みが浮かべられていた。
しかし、そのルビー色の瞳が見下ろしているのは、燃え盛るバザールと逃げ惑う人間たち――彼女にとっての「不潔な塵芥」に過ぎなかった。
「……まあ、なんと醜いのでしょう」
鈴の鳴るような、美しく澄んだ声が断崖に響き渡る。
「世界の最底辺で地を這い、泥と毒を撒き散らす不潔な毒虫ども……。無価値な生命が命乞いをする姿ほど、見るに堪えないものはありませんわ」
クラリスはそっと手にした細身の聖剣を傾けた。
彼女の白い袖口が夜風に揺れ、その隙間から「それ」が姿を覗かせる。
黒く、禍々しく脈動する結晶体――かつて世界を破滅寸前まで追い詰めた邪神『ヘメラ』の残滓。
それがクラリスの肌と同化するように蠢き、不気味な黒銀の光を放っていた。
クラリスのルビー色の瞳が、絶壁の棚に立つふたり――とりわけ、ヒルデの傍らに立つ黒髪の少年へと注がれる。
その瞬間、彼女の可憐な微笑みが、絶対的な狂気と執着を孕んだ深淵の笑みへと歪んだ。
「……ああ、見つけましたわ」
クラリスは胸元でそっと手を組み、恍惚とした吐息を漏らした。
「見つけましたわ……私の大切な、ヘメラ様」
――ぞくっ、と。
エレボスの胸元に刻まれた影痣が、狂ったように跳ね上がり、激痛とともに蠢いた。
「クラリス……ッ!」
ヒルデは二メートルを超える巨躯を前面に踏み出し、背の大剣を叩きつけるように引き抜いた。
かつてエレボスの魂を宿し、共に修羅場を潜り抜けてきた因縁の鋼。その刃を構え、迫り来る聖女の前に立ちふさがる。
「エレボスには指一本触れさせない! 貴様らの騙る『完璧な世界』など、私たちは拒絶する!」
「ふふ……相変わらず愚かで、不潔な女騎士」
クラリスは絶壁の縁から、ふわ下りと軽やかに空へと足を踏み出した。
重力を無視し、純白の聖衣を羽ばたかせながら、圧倒的な死の圧迫感とともにふたりの目の前へと降臨する。
「傷だらけの肉体で泥を這い、ゴミくずどもと温もりを舐め合う……そんな惨めなものが『生の価値』だとでも? 愚かしい。ヘメラ様は間もなく、私が差し出す完璧で無傷な器によって、真の神として再誕生なさるのです」
クラリスが細身の聖剣を静かに掲げた。
剣身から解き放たれた白銀の聖光と、袖口から溢れ出す黒きヘメラの残滓が混ざり合い、峡谷の空を絶望の二色で染め上げていく。
「さあ、お返しいただきましょうか。……私のヘメラ様を」
可憐な聖女が放つ、殺意と狂気の渦。
逃げ場のない崩落の絶壁で、不完全な生を選んだふたりと、完璧な神を求める絶対者との直接対決が、いま幕を開けようとしていた。
(第23話へ続く)




