第20話:『静かなる破調』
第20話:『静かなる破調』
『崩落の峡谷』の北東外縁部――削り出された岩塩の崖の上に立つ第十四警戒所。
風化した見張り台では、二人の見張りが火鉢の炭に手をかざしながら、寒々とした夜空を見上げてあくびを噛み殺していた。
「……おい、何か聞こえなかったか?」
「風の音だろ。塩坑の隙間を吹き抜ける音が、笛みたいに鳴るんだよ」
片方の男が鼻をすすりながら、革袋の酒を一口含んだ。
だが、その喉がゴクリと鳴り終わる前に、闇の中から「一閃」の銀光が走った。
――ヒュッ。
重厚な金属音が一切響かない、異常なほど静かな穿孔音。
男の喉元を極細の鋼線が正確に貫き、言葉どころか悲鳴すら遮り散らした。酒の革袋が岩肌に落ち、湿った音を立てる。
「なっ――!?」
もう一人が腰の短剣に手を伸ばしようとした瞬間、彼の背後の影が不自然に歪んだ。
影の中から姿を現したのは、光を一切反射しない漆黒の密着した外套を纏った人影。言葉を発することもなく、無機質な動作で男の頸椎を正確に挫く。
崩れ落ちる二つの肉体。
血すら岩肌に広がる前に、浸透性の高い特殊な布で素早く拭い取られた。
「……第十四地点、排除完了」
低く抑えられた声が、耳元の魔導通信器へ吹き込まれる。
『了解。第十二、第十三地点も沈黙した。作戦第一段階へ移行せよ』
「御意。……ネズミどもは一匹たりとも逃がしません」
影たちは死体を深谷の闇へと投げ捨てると、跡形もなく姿を消した。
警戒所を吹き抜ける風の音だけが、何事もなかったかのように変わらず響き続けていた。
バザールの中心部は、今夜も変わらぬ雑多な狂騒に包まれていた。
鍛冶屋の火花が夜空に散り、肉を焼く香ばしい煙と安酒の匂いが入り混じる。
ガドのアジトの軒先では、昼間の作業を終えたエレボスが、木彫りのスプーンでスープをゆっくりと口へ運んでいた。隣ではヒルデが大剣の手入れをしつつ、周囲の不審な動きに目を光らせている。
「……エレボス。スープが冷めるぞ」
「ふん……。冷めても味は変わらん」
軽口を叩きながらも、かつて死線を潜り抜けていた頃が嘘のように、エレボスは落ち着いた手つきで皿を突いていた。
だが、その穏やかな空気の裏側で、確実に「異物」が街に混じり込み始めていた。
路地の陰、使い古された外套のフードを深く被った「行商人」。
彼は露店の棚に並ぶガラクタを手にとる素振りをしながら、袖口から覗かせた微小な魔導測定器を静かに作動させていた。
(……反応あり。黒紫の魔力残滓、および規格外の重量を誇る大剣の気配。目標二名はバザール中央区画、ガド一派のアジト前に滞留中)
密偵の視線が、遥か遠くでスープを飲む少年と、その横に佇む大柄な女へ向けられる。
彼らは決して直接の攻撃を行わない。ただ、バザールを取り囲むように配備された複数の密偵たちが、刻一刻と正確な位置情報と地形データを本隊へと送信し続けていた。
「おい、アンタ。買う気がないならそこを退きな」
露店の店主が怪訝そうに声をかけると、密偵は一言も発せず、数枚の銀貨を台に置くとスッと人混みの中へ消えていった。店主は首をかしげ、「奇妙な奴だ」と銀貨をポケットに放り込む。
人々は誰も気づいていない。
この無法地帯を包み込む広大な峡谷の崖上が、すでに聖導機構の『隠密執罰部隊』によって完全に封鎖されつつあることに。
夜更け、ガドの事務所。
「……妙だな」
ガドは煙草の灰を落とし、壁に掛けられた峡谷の地図を見つめていた。
「ガドさん、どうしたんです?」
火傷痕のハンター・ボリスが酒瓶を手に歩み寄る。
「外縁部の連絡が途絶えてる。第十四警戒所からの定期報告が、三十分遅れてやがる」
「なぁんだ、また奴ら、酒でも飲んで寝こけてるんじゃないですか? 峡谷の風は冷えますからね」
「……いや。あの連中は粗暴だが、報告の時間を破るようなヘマはしねえ。それに……」
ガドは窓の外、静まり返る峡谷の闇を凝視した。
「風の匂いが変わりやがった。……鉄と、油と、嫌な『聖水』の匂いが漂ってきやがる」
ガドの野生的な直感が、かつて幾度も修羅場を潜り抜けてきた経験が、警鐘を鳴らしていた。
だが、具体的にどこで何が起きているのかを掴むには、すでに手遅れであった。
バザールを囲む削り立った断崖の頂。
月光を遮る黒雲の影で、何十本もの光線銃と魔導投擲器が、静かに見下ろすバザール全体へと照準を合わせられていく。
彼らが待っているのは、ただ一つの合図。
逃げ場のない深谷の壺底で、何も知らずに眠りにつこうとする無数の命。
過酷だが確かに存在していた小さな平穏の頭上に、壊滅へのカウントダウンが静かに、そして確実に刻まれ始めていた。
(第21話へ続く)




