第19話:『泥を這う生き方』
第19話:『泥を這う生き方』
傷口が塞がり始めた数日後、ヒルデとエレボスはガドの隠れ家の一角で、積み上げられた錆びた機械部品の前に立っていた。
「タダ飯とタダ湯のツケだ。うちで匿ってほしけりゃ、手を動かしてもらおう」
ガドは二人に向けて、無造作に巨大な工具と背負い袋を投げ越した。
「峡谷の東側、旧塩坑の最下層から使える魔導伝導体を引き抜いてきてくれ。あそこは最近、地殻の歪みで崩落が激しく、うろつく凶暴な魔導野犬の巣窟になってやがる。足手まтуиを寄こす余裕はねえ」
「承知した。引き受けよう」
ヒルデがそう答えた横で、エレボスは不満そうに腕を組んだ。
「……神たる私が、なぜそのような人間どものゴミ拾いを手伝わねばならんのだ」
「文句があるなら今すぐここを出ていくんだな、おチビちゃん」
ガドの手下のひとりで、顔に大きな火傷痕のある老ハンター・ボリスが煙管の煙をくゆらせながらニヤリと笑った。
「ここはな、己の腕で飯のタネを稼ぐ奴しか生き残れねえ場所なんだよ」
闇と湿気が支配する旧塩坑の最下層。
崩れ落ちた鉄骨と岩塩の破片が散乱する中、ヒルデの大剣が一閃し、襲いかかってきた金属質の野犬を叩き潰した。
「左からもう一匹来るぞ、ヒルデ!」
エレボスが小柄な体躯を活かして岩陰を跳び、手に纏わせた小さな影の刃で野犬の脚を正確に切断する。力を制御しつつも無駄のない動作に、同行していたボリスが感心の口笛を鳴らした。
「へっ、口だけじゃねえな坊主! その調子で奥の制御盤をこじ開けてくれ!」
エレボスはボリスに指示されるまま、油と煤で黒く汚れた工具を握り締め、太い配線を一本ずつ引き抜いていった。指先はすぐに油と煤で真っ黒になり、綺麗な衣装の袖も汚れていく。かつて指一本動かさずにすべてを見下ろしていた彼が、今は眉間にシワを寄せ、一本の銅線と格闘していた。
「……できたぞ」
「でかした! こいつがあればバザールの広場の灯りをあと一ヶ月は点けられる!」
ボリスはエレボスの肩をバンバンと力任せに叩いた。エレボスは眉をひそめてその手を払いのけたが、その表情に不快感だけではない、どこか面食らったような色が混じっていた。
作業を終えてバザールへと戻ると、夕闇の中にオレンジ色のランタンが一斉に灯った。
ボリスは約束通り、ガドの事務所で換金したばかりのずっしりと重い銀貨を二枚、エレボスの手に押し付けた。
「ほらよ、お前さんの分の『給金』だ。ちゃんと働いたんだ、堂々と受け取りな」
手のひらに残る、硬く冷たい金属の重み。油で汚れた自分の手を見つめ、エレボスはぽつりと呟いた。
「……たったこれだけの銀貨のために、あのような泥臭い真似をしたというのか」
「たったこれだけ、だと?」
ボリスは煙管を置き、ふっと目を細めて笑った。
「坊主、その銀貨一枚で、お前がさっき灯した明かりの下で食う温かい飯が買えるんだ。ここはな、聖導機構みたいな綺麗な教義も救いもねえ。全員が過去にやらかして、罪や傷を抱えて行き場を失った落とし子ばかりだ」
ボリスは自分の顔の火傷痕を指で撫でた。
「だがな、泥を這い回って、腕を汚して、今日を生き延びるために稼いだ金で食う飯は……世界のどこにある高級料理よりも美味い。泥に塗れてでも『生きようとする』ってのは、そういうことだ」
そう言ってボリスは、屋台街の奥へと歩み去っていった。
その夜、バザールの一角にある粗末な屋台で、二人は湯気を立てる皿を囲んでいた。
エレボスが自分で稼いだ銀貨を出して買ったのは、挽き肉と香辛料をふんだんに使った熱々のパイだった。
さっくりとした生地を噛みちぎると、肉汁と香辛料の濃厚な風風味口いっぱいに広がる。
「……美味いか、エレボス」
ヒルデが優しく問いかけると、エレボスは少し悔しそうに一口目を飲み込み、二口目を大きめにかじりついた。
「……美味なに決まっているだろう。私が働いて、手に入れたものだ」
「そうだな。お前が掴み取った糧だ」
油で汚れた互いの手を隠しもせず、二人は賑やかな雑踏の中で静かに食事を続けた。
周囲を見渡せば、片腕を失った男、身体の一部を機械に変えた女、追撃の恐れに怯えながらも酒を酌み交わす逃亡兵たち――誰ひとりとして完全な者などおらず、皆が何かに傷つき、泥を這うようにしてこの死谷で呼吸を繋いでいた。
以前の自分なら、関心すら払わず一顧だにしなかったであろう人間たちの小さく惨めな営み。
だが今、自分の手で稼いだ温かい料理を味わいながら、エレボスは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(……不完全で、愚かで、みっともない)
心の中でそう呟きながら、エレボスは小さく息を吐いた。
(だが……だからこそ愛おしいのだな。泥を這い、傷を抱えながらも、なお必死に命を燃やすこの人間という生き物は)
自分の胸元に蠢く黒紫色の影痣にそっと手を当て、エレボスは遠く灯るバザールの明かりを見つめた。
不完全な神と、傷ついた戦士。二人の歩む泥泥とした逃避行の道筋に、確かな生の誇りが宿り始めていた。
(第20へ続く)




