第18話:『湯煙の傷痕』
第18話:『湯煙の傷痕』
バザールの雑踏を抜け、ガドの案内で岩塩坑の最も深い洞窟へと足を踏み入れると、ひんやりとした坑道の空気が次第に生暖かい湿気を含み始めた。
「奥の自噴泉だ。地熱で湧く塩の混じった湯でな。坑夫どもが骨の芯まで冷えた時や、落盤の傷を洗うのに使ってる。……不潔な病がつく前に、その傷をよく湯に浸けておけ」
ガドが壁の灯籠を灯し、ざらついた粗布の手拭いを二枚、石台の上に放り投げた。
奥からは、仄かな硫黄と鉱塩の匂いとともに、白濁した湯が湧き出る水音が重く響いている。ガドが無造作に去っていく足音を見送ると、ヒルデは深く息を吐き出し、重い大剣を壁に立て掛けた。
洞窟の最奥に広がる湯治場は、岩肌をくり抜いた静寂の空間だった。
白い湯気が洞穴の天井へと立ち上り、灯篭の橙色の光を柔らかく乱反射させている。
「……着物を脱ぐぞ、エレボス」
ヒルデは短く告げると、旅の塗れて汚れた外衣の革紐を解いた。
防具を外し、衣服を滑り落とすと、二メートルを超えるその筋骨たくましい肉体が露わになる。だが、そこに刻まれていたのは、鍛え上げられた戦士の美しさだけではなかった。
サン・ヴァルで『鉄槌』のヴァルターが放った光線斧の余波――右肩から背中にかけて、肉が大きく裂け、黒く焼けただれた生々しい傷口が、いまだ血と脂を滲ませていた。さらにその周囲には、対魔部隊時代の無数の古い刃傷が縦横に走り、彼女がくぐり抜けてきた死線の過酷さを無言で物語っている。
「……ヒルデ」
胸元を押さえ、服を脱ぎ捨てたエレボスが、息を呑んでその背中を見つめていた。
エレボスの視線に気づいたヒルデは、振り返りざまに、彼の胸元へと視線を落とす。
華奢な少年の面影を残すエレボスの胸元。そこには、体内の魔力を限界まで絞り出し、拒絶反応を起こした「影」の痕跡が、不気味な黒紫色の刺青のように皮膚の奥深くまで侵蝕していた。脈動に合わせて微かに蠢くその影痣は、ひとつの間違いで彼自身が崩壊していたかもしれない危険な代償だった。
「お前も……酷い有様だな」
ヒルデは痛みに顔を歪めることなく、静かに言った。
「ふん……。お前の背中の肉が腐り落ちるのに比べれば、大したことはない」
エレボスは強がるように鼻を鳴らしたが、その声には隠しきれない疲弊が滲んでいた。
二人は吸い寄せられるように、白濁した岩風呂へと足を踏み入れた。
「……くっ」
湯に体を沈めた瞬間、塩分を含んだ熱い湯が、ヒルデの開いた傷口へと容赦なく沁み込んだ。刃で抉られるような激痛に、ヒルデの顎のラインが硬く緊張する。
「無理をするな。痛むのだろう」
少し離れた湯船の端で、湯に肩まで浸かったエレボスが眉をひそめた。
「痛みは生きている証拠だ。……熱が沁みて、むしろ骨の痺れが取れていく」
ヒルデは大きく息を吐き出し、岩肌に頭を預けた。
白濁した湯が二人を優しく包み込み、凝り固まった筋肉と神経を少しずつ解きほぐしていく。
沈黙の中、水面を揺らす音が聞こえた。
エレボスが静かに湯を掻き分け、ヒルデの背後へと回り込んでいた。湯に浸した手拭いを小さく丸め、ヒルデの焼けた右肩のすぐそばに、そっと手を伸ばす。
「……動くな。血膏がこびりついている」
「エレボス?」
「喋るなと言っている」
不器用な指先が、手拭いにたっぷりと湯を含ませ、傷口を刺激しないよう静かに滴らせていく。
固まっていた血の塊が温かい湯で解け、黒ずんだ汚れが湯面へと流れていく。
かつて人間を冷徹に見下ろし、破壊の力を振るうだけだった神の核。その存在が今、ぬくもりを持った小さな手で、不器用に己の背中を流している。
背中に伝わる手拭いの感触と、エレボスの体温。ヒルデはそっと目を閉じ、己の呼気を湯気に混ぜた。
「……すまない」
「なぜ謝る。お前が私をかばって受けた傷だ。……私が洗うのは当然だろう」
エレボスの声は静かだったが、その手は一度も止まらなかった。
互いの肉体に刻まれた痛々しい傷痕を隠すことなく晒し合い、湯の熱を感じることで、ふたりは自分たちが「死線を越えて、今ここに生きている」という揺るぎない事実を噛み締めていた。
「……上がったら、何か腹に入れよう。ガドが何か用意しているはずだ」
「ああ……。腹が減ったな」
背中を流し終えたエレボスが、ヒルデの隣に腰を下ろし、ふたりでぼんやりと天井から落ちる水滴を眺めた。
湯から上がり、湯治場の外にある木製のベンチに腰を下ろしたふたりの前には、ガドの手下がかき集めてきた質素な食事が並んでいた。
山塩と干し肉、根菜をじっくり煮込んだ不格好な濃いスープ。
「おい、冷めないうちに食いな。バザール特製の『坑夫汁』だ。塩分を摂らねえと、峡谷の風で干からびるぞ」
通りすがりざまにガドが言い捨てていく。
ヒルデは木彫りのスプーンを取り、熱々のスープを口に運んだ。
塩気が強く、少し野性味の強い肉の味が口いっぱいに広がる。だが、過酷な逃亡劇で枯れ果てていた体に、その強烈な旨味と熱がじんわりと染み渡っていった。
「……美味いな」
「……本当か? 随分と濁った色をしているが」
エレボスは怪訝そうにスープを見つめていたが、ヒルデの様子を見て、おそるおそるスプーンを口へと運んだ。
瞬間、エレボスの大きな瞳が微かに見開かれる。
「……あたたかい」
「塩気が効いているだろう。汗をかいた体にはこれが一番いい」
「ああ……。喉を通る時、胸の奥がじんわりとする。……湯に入った時と同じだ」
エレボスは器を抱え込むようにして、二口目、三口目とスープを口へ運んだ。
食欲を満たす充足感と、相棒と隣り合って座る安らぎ。神の領域にいた頃には決して知ることのなかった、泥臭くも愛おしい「人間の生の味」を、エレボスは確かに噛み締めていた。
「どうだ、エレボス。追われる身とはいえ、こうして傷を癒やして温かいものを食うのも……悪くないだろう」
「……ふん。もっとましなテーブルで食べたいものだな」
エレボスはフイと横を向いたが、その手はスープの器をしっかりと離さずにいた。
「だが……悪くはない」
蒸気と塩の匂いに包まれた洞窟の片隅で、ふたりは互いの傷を労いながら、穏やかな束の間の休息へと身を沈めていった。
(第19話へ続く)




