第17話:『無法のバザール』
第5章:『崩落の峡谷と、白銀の侵蝕』
第17話:『無法のバザール』
赤茶けた断崖が、どこまでもどこまでも垂直に落ち込んでいた。
サン・ヴァル下層の激闘を命からがら抜け出したヒルデとエレボスが辿り着いたのは、聖導機構の法すら届かない深淵の地――『崩落の峡谷』の入り口であった。
乾いた風が吹き抜けるたび、微かに白い塩の結晶が舞い上がる。かつて巨大な海水湖であったこの地は、古代の崩落によって水が干上がり、今や広大な岩塩坑の跡地となって広範囲に沈み込んでいた。
「……おい、ヒルデ。足元がふらついているぞ」
影を纏わせた漆黒の長衣の裾を揺らし、エレボスが立ち止まる。
その視線の先で、己の身の丈ほどもある大剣を杖代わりに突いて歩いていたヒルデは、苦々しく吐息を漏らした。
「黙って歩け、エレボス……。ただの立ちくらみだ」
強がりを口にするヒルデの顔色は、蝋のように白い。
『鉄槌』のヴァルターが放った光線斧の余波で裂けた右肩からは、今もジワジワと赤黒い血が滲み、旅の衣服を汚していた。エレボス自身もまた、体内の魔力を限界まで絞り出した拒絶反応により、胸元に走る影の刺青のような痕跡が疼き続けている。
ふたりは、文字通り満身創痍であった。
風の唸り声に混じり、不意にざわめきが耳に届いた。
岩塩坑の巨大な断層を回り込んだ瞬間、視界が劇的に開ける。
「……これが……『バザール』か」
ヒルデの口から、漏れ出るような声が零れた。
そびえ立つ塩の柱と削り出された洞窟の群れ。その幾重にも重なる岩肌の隙間に、巨大な布テントや廃材を組み上げたバザー(市場)が、まるで巨大な蟻の巣のようにひしめき合っていた。
カンカンと高く響く鍛冶の槌音。
肉を焼く香ばしい煙と、塩気を含んだ特有の匂い。
機構の追手を逃れた逃亡兵、異国の行商人、古代の遺跡から遺物を掘り出すスクラップハンター――多種多様な者たちが、怒号と不敵な笑い声を交わしながら入り乱れている。
清潔で格式高い聖導機構の都市とは正反対の、不潔で、泥臭く、そして圧倒的な生の活気に満ちた熱量が、そこには渦巻いていた。
「異様な熱気だな。人間どもが、これほど狭苦しい場所に群がるとは……」
エレボスが鬱陶しそうに眉をひそめる。だが、その瞳は見たこともない異彩を放つ街の光景を、どこか好奇に満ちた眼差しで追いかけていた。
「ここは機関の監視が届かない唯一の無法地帯だ。……だが、気を緩めるな。ここにいるのは全員、己の力だけを頼りに生きている粗暴な連中ばかりだ」
ヒルデは大剣の柄に手を伸ばし、深くかぶったフードの奥から鋭い視線を走らせる。
人混みの合間を縫い、傷を癒やせる休息所を探そうとした――まさにその時だった。
「――おい。見慣れない大タツだな」
重厚な足音とともに、地鳴りのような低い声が頭上から降ってきた。
ふたりの足を止めたのは、二メートル半に達する巨大な体躯を誇る男だった。女性としては破格である二メートル越えのヒルデですら、明確に見上げるほどの圧倒的な圧迫感。全身には無数の死線の傷痕が刻まれ、背中には破城鎚のような巨大な鉄塊を背負っている。
男の背後から、目つきの鋭い無法者たちがゾロゾロと姿を現し、ふたりを遠巻きに囲い込んだ。
ヒルデは息を殺し、エレボスを背後にかばうように半身に構える。
「……何者だ。私たちはただの旅人だ。争う気はない」
「ただの旅人、ねぇ」
巨漢の男――スクラップハンターの頭領ガドは、ヒルデの足元に落ちる血の点跡と、彼女が背負う大剣へギラついた視線を走らせた。
「その歩き方……肩の傷は魔導兵器で焼き切られた痕だな。それに、お前が背負ってるその大剣……使い古されちゃいるが、並の鍛冶師が打った代物じゃねえな。只者じゃねえ気配が染み付いてやがる」
ガドの細められた瞳に、鋭い観察眼が宿る。
「機構の犬か、それともどこかの軍から掠め取ってきた大罪人か?」
周囲の無法者たちが、一斉に腰のナイフやボウガンに手をかける。空気が一瞬で凍りついた。
「機構の犬ではない。……私は機構を追われた身だ」
ヒルデは低く澄んだ声で答え、隠していたフードをそっと外した。
露出した厳しい目元と、滲み出る執念。ガドは長年の修羅場で培った直感で、彼女の言葉に嘘がないことを感じ取った。そして、その背後に立つ黒髪の少年――エレボスへと視線を移す。
人間離れした美しい容姿と、その奥に隠された底知れぬ影の気配。
「……ふん。ワケありなのは間違いねえな。そのガキも、ただの人間じゃねえ」
「この子に手を出すな」
ヒルデの手が、大剣の柄を固く握り締める。傷口が開き、激痛が走ったが、彼女は眉一つ動かさなかった。
その姿を静かに見つめていたガドは、鼻で嘲笑うように息を吐くと、背負っていた緊張感をふっと緩めた。
「やめとけ、ねえちゃん。その巨体と大剣を振り回す前に、傷で命が尽きるぞ」
ガドは顎で街の奥をしゃくった。
「来な。俺の隠れ家だ。バザールで血を撒き散らされるのは商売あがったりなんでな」
「……信用できるのか?」
「信用などさせるかよ。ここは崩落の峡谷だ。信じられるのは金と自前の獲物だけだ」
ガドは背を向け、不器用に笑った。
「だがな……そんな大剣を背負って、命懸けで『何か』を守ってる奴の目を見るのは、嫌いじゃねえ。傷を洗いたいならついてきな」
大柄な背中が人混みの中へと進んでいく。
ヒルデとエレボスは一瞬顔を見合わせると、固い決意とともに、その無法者たちの背中へと続いて足を踏み出した。
無法都市バザールの深い奥底へ――ふたりの束の間の休息と、新たな運命の歯車が静かに動き始めていた。
(第18話へ続く)




