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巡礼の咎喰い  作者: 捨て石


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第16話:『崩落の峡谷へ』

 第16話:『崩落の峡谷へ』

  絶壁に架けられた木道に、重々しい静寂が降り積もっていた。

  漆黒の影を宿した大剣を握りしめ、ヒルデは荒い呼吸を繰り返していた。砕けた重装甲冑の隙間から、熱い血が滴り落ちて木板を赤く染める。

  谷底の闇へと滑落していったヴァルターの気配は、もはや上がってこない。打ち砕かれた巨大な光線斧の破片だけが、石畳の上に虚しく転がっていた。

 ズズ……ッ

  大剣と甲冑を覆っていた漆黒の影が、引き潮のように収束し、背後に佇むエレボスの体内へと戻っていく。

 エレボスはその場に激しく膝をつき、肩を上下させて喘いだ。拒絶反応の激痛を根性でねじ伏せ、影をヒルデへと預けた反動が、幼い身体を容赦なく苛んでいる。

 「……エレボス!」

  ヒルデは大剣を背の鞘へと叩き込むと、痛む足を引きずって駆け寄り、その小さな肩を抱きかかえた。

 「大丈夫か……! 無茶をしやがって……」

 「……あ……ふ……っ。平気、だよ……ヒルデ。わたし……ちゃんと、一緒に戦えた……?」

  泥と汗にまみれた顔で、エレボスが小さな微笑を浮かべる。

 守られるだけの存在から、背中を預け合う相棒へ。その瞳に宿る確かな光を見つめ、ヒルデは不器用に口元を緩めた。

 「ああ。お前が影をくれたおかげで、あの巨躯を打ち砕けた。……よくやった」

  その時、木道の奥の物陰から、ゆっくりと歩み寄ってくる影があった。

 怪しい情報屋であり、元・魔導学者のマティスだった。彼は手にしたランプの光で二人を照らし、呆れたように深く息を吐き捨てた。

 「……まさか、あの『鉄槌』のヴァルターを谷底へ叩き落とすとはな。異端審問官の重装甲を打ち砕く拳など、生きてお目にかかれるとは思わなかったよ」

  マティスは二人の前に立つと、懐から古びた革塗りの筒を取り出し、ヒルデへ無造作に差し出した。

 「約束の情報だ。……『崩落の峡谷』の、隠された安全ルートが記された古文書だよ。聖導機構の編纂記録にも残っていない、古い時代のものだ」

  ヒルデは眉をひそめ、筒を受け取った。

 「……なぜだ。あんたは『関わる気はない』と言っていたはずだが」

 「関わるつもりはなかったさ。……だが、激痛に耐えながらその小さな体で影を紡いだ少年と、血を流しながら仁王立ちで庇い続けた重装騎士……あんたら二人の凄絶な絆を見せつけられてはな。見捨てたとあっちゃ、今夜から酒が不味くなる」

  マティスは視線を険しくし、低い声で鋭い警告を付け加えた。

 「……だが、勘違いするなよ。そのルートを知ったところで、峡谷はヘメラの魔術的歪みが渦巻く地獄だ。黒砂の嵐は肉を削ぎ、狂乱の落雷は骨まで焼き尽くす。そこへ足を踏み入れるのは……死にに行くようなものだぞ」

  死の宣告にも等しい言葉。

 だが、手負いの重装騎士と少年は顔を見合わせると、同時にふっと口元を緩めた。

 「死にに行く、か。……断るな」

  ヒルデが血のついた顎を突き出し、ぶっきらぼうに言い捨てる。

 「わたしたちは、まだ死ぬわけにはいかないんだ。……この街で食べたスープも悪くはなかったが、世界にはもっと美味い飯があるはずだからな」

 「うん。わたし、もっと色んな美味しいものを食べて……ヒルデと一緒に生きたいんだ」

  エレボスがひたむきな瞳でマティスを見つめ返す。

 自暴自棄の覚悟でも、誇り高き殉教でもない。ただ「美味しいものを食べ、生き残る」という、どこまでも泥臭く人間らしい意志。

  マティスは一瞬目を見開き、やがて降参したように肩をすくめて笑った。

 「……ハッ、違いない。生きる理由としちゃ、それ以上に上等なものもないな。……行け、泥臭い冒険者ども。無様でもいい、生きて峡谷を抜けろよ」

         *

  翌朝。

 崖の交易都市『サン・ヴァル』の東端から、深く澄み渡った朝日が昇り始めていた。黄金色の光芒が、静まり返る街道と二人の背中を温かく照らし出す。

  街の喧騒に静かな別れを告げ、二人は荒野の最果てへと足を一歩踏み出した。

  視界の先――前人未到の地『崩落の峡谷』。

 空間を歪める黒砂の嵐が渦巻き、遠雷の轟音が地に響き渡っている。機構の追手、そして「ヘメラの器」を狙う未知の脅威が待ち受ける極限の荒野。

  ヒルデは大剣の柄を固く握り直し、隣を歩く少年の肩をそっと叩いた。

 「準備はいいか、エレボス」

 「うん! いこう、ヒルデ!」

  朝日を背に、二つの影が黒い砂原の上へと長く伸びていく。

 傷だらけの鋼と、芽吹き始めた影の刃。二人は一度も振り返ることなく、未知なる明日へ向かって確かな一歩を踏み出した。


(幕間に続く)

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