第14話:『断層の決闘』
第14話:『断層の決闘』
鼓膜を破るような風切り音と共に、底知れぬ闇の中を落下していく。
上空からは無数の岩盤が砕け落ち、赤い閃光が雨のように後を追ってくる。
宙に投げ出されたエレボスを左腕に強く抱き込んだヒルデは、空中で身を捻りながら右手で大剣を抜き放ち、迫り来る巨大な瓦礫を次々と弾き飛ばした。
「エレボス、衝撃に備えろ!」
「言われるまでもない……ッ!」
エレボスが小さな右手を眼下の闇へ突き出す。
その指先から、夜の闇よりも濃い漆黒の影が爆発的に伸びた。影は無数の茨となって周囲の岩壁に突き刺さり、二人の落下の勢いを強引に殺していく。
ギギギギィッ! と、岩肌を削るけたたましい摩擦音が断層に響き渡る。
完全に速度を殺しきる前に、二人の体は断層の中腹に架かる、苔むした巨大な石橋へと叩きつけられた。千年前の厄災から辛うじて残っていた古代の遺構だ。
「ぐ、ぅ……ッ!」
ヒルデは自らの背中をクッションにするようにして石橋の床へ転がり、苦悶の声を漏らした。
脇腹の傷口が完全に開き、熱い血が石畳を濡らす。
「ヒルデ...! 大丈夫か」
「案ずるな。……これくらい、訓練の打ち身と変わらん」
ヒルデは大剣を杖にして、ふらつく足で立ち上がった。その額には脂汗が浮かんでいるが、声には微塵も弱音を混じらせない。
だが、二人が息を整える暇は与えられなかった。
頭上の闇を割り、巨大な真紅の流星が一直線に落下してくる。
それは凄まじい質量を伴って、二人の数メートル先の石橋へ激突した。
-ドゴォォォォォンッ!!
石橋全体が跳ね上がるような轟音。
もうもうと立ち込める土煙を真っ二つに裂いて現れたのは、巨大な光線斧を肩に担いだ黒鉄の巨躯 -ヴァルターだった。
彼もまた、崖上から一切の減速なしでこの絶壁を飛び降りてきたのだ。その足元では、千年の風雪に耐えた石橋がクレーター状にひび割れている。
「ハッ……泥を這うネズミの歩みと、機構の軍用獣の足を一緒にするな。貴様らがちんたら傷を舐め合っている間に、こちらは街道を最短で駆け抜けてきたのだよ」
ヴァルターは鉄兜の奥で目を細め、冷酷に鼻を鳴らした。
「西へ逃げるなら『サン・ヴァル』を通るしかないことなど、子供でも分かる理屈だ。……無駄な足掻きをご苦労だったな、裏切り者」
「……」
ヒルデは何も答えない。
ただ無言で、エレボスを背に庇うように立ち、大剣の切先を真っ直ぐにヴァルターの喉元へ向けた。
「あの巨体だ、まともに打ち合えば腕ごと持っていかれるぞ。私が隙を作る」
背後のエレボスが、両手に漆黒の影を纏わせながら低く囁く。
ヒルデは短く一度だけ頷き、地面を蹴った。
「――シッ!」
鋭い呼気と共に、ヒルデが瞬速の踏み込みでヴァルターの懐へ飛び込む。
狙うは装甲の隙間、首筋の関節部。だが、ヴァルターはその巨体に似合わぬ反応速度で巨大な斧を振り回した。
「小賢しい!」
ガガァァァンッ!!
大剣と光線斧が激突し、火花が夜の断層を照らす。
圧倒的な膂力と、斧から発せられる高熱の魔力。ヒルデの腕の筋肉が悲鳴を上げ、足裏が石畳を削りながら後方へ押し込まれる。
「ヒルデ!」
エレボスが影の刃を放つ。
漆黒の茨がヴァルターの足元から這い上がり、その巨大な両腕と斧の柄を絡め取った。強靭な拘束力に、ヴァルターの動きが一瞬だけ完全に停止する。
「今だッ!」
ヒルデが押し込まれていた力を反転させ、渾身の力でヴァルターの胴を薙ぎ払う。
-しかし。
「ぬるいぞ、泥虫ィ!」
刃が黒鉄の重装甲に触れた瞬間、装甲の表面に刻まれた聖導機構の防護術式が眩い光を放った。
硬質な反発音と共にヒルデの大剣は弾き返され、エレボスの影の拘束も、ヴァルターの全身から噴き出した真紅の魔力によって千切れ飛ぶ。
「な……ッ!」
『鉄槌』。
**その異名は伊達ではない。**純粋な破壊力と、一切の刃を通さない絶対の防御。
ヴァルターは体勢を崩したヒルデの腹部に、丸太のような前蹴りを叩き込んだ。
「が、はッ……!」
ヒルデの体がくの字に折れ曲がり、石橋の欄干まで吹き飛ばされる。
砕けた胸当ての隙間から、鮮血が噴き出した。
「ヒルデ!!」
エレボスが叫び、さらなる影を繰り出そうと両手を突き出した -その瞬間。
「あ……?」
ドクン、と。
エレボスの胸の奥で、心臓を鷲掴みにされたような強烈な痛みが爆発した。
(なんだ……今の、激痛は……ッ)
視界が急激に赤黒く染まり、展開しようとしていた影の魔力が、霧散するように手元から消え去る。
ヘメラの魔力で造られた「不完全な器」。限界を超えた魔力の行使と、峡谷の底から這い上がってくる特殊な瘴気が、エレボスの小さな肉体に強烈な拒絶反応を引き起こしたのだ。
「あ、が……ァァァッ!!」
エレボスは胸を掻き毟りながら、石畳の上に崩れ落ちた。
息ができない。体が、内側から溶けていくような激痛。
「エレ、ボス……!」
倒れ伏したヒルデが、血を吐きながら必死に手を伸ばす。
「ほう。悪魔の残滓も、ついに限界と見える」
ヴァルターが、悠然とした足取りで身悶えするエレボスを見下ろした。
その手に握られた光線斧が、処刑の合図のように高く振り上げられる。斧の刃が、煌々とした真紅の光を帯びて唸りを上げた。
「無価値な実験体め。貴様のような不純物は、ここで塵に還るのが機構の理だ。……死ね」
圧倒的な質量の刃が、無慈悲に振り下ろされる。
動けないエレボスの瞳に、迫り来る死の光が映り込んだ。
「――させ、るかァァァッ!!」
耳を劈くような金属音。
エレボスの小さな体の上に、血塗れになった女騎士の背中が覆い被さっていた。
ヒルデは両手で握りしめた大剣の腹で、ヴァルターの放った渾身の一撃を正面から受け止めていた。
刃の重圧にヒルデの膝が砕け、石畳にめり込む。残っていた甲冑がひび割れ、砕け散り、耐えきれなくなった口から大量の血が吐き出された。
それでも、彼女は決して大剣を離さず、一歩も退こうとはしなかった。
(第15話へ続く)




