第13話:『崖下の断層と、忍び寄る鉄槌』
第13話:『崖下の断層と、忍び寄る鉄槌』
胃袋を満たした温かなスープの余韻は、長くは続かなかった。
サン・ヴァル下層区。太陽の光が届かない崖の裏側にへばりつくように建つ、薄暗い廃品屋の奥。
油と鉄錆の匂いが充満するその部屋で、店主である情報屋のマティスは、卓の上に放り出された銀貨の山とヒルデの顔を交互に見比べた。
「……本気かよ。その手負いの体で『崩落の峡谷』の底へ降りるって?」
片目に古傷を持つマティスは、呆れたように細い煙管を吹かした。
「あそこは千年前の厄災で地盤ごとへし折られた死地だ。西風の吹き溜まりで、まともな道なんかありゃしねえ。おまけに、得体の知れない魔獣や古代兵器の残骸がうろついてる」
「道がないなら、作るまでだ。峡谷の底へ降りるルートと、古代施設の座標が要る」
ヒルデの言葉は短く、そして揺るぎなかった。
その傍らで、新しい防砂ポンチョに身を包んだエレボスが、退屈そうに店内のガラクタを細い指でつついている。
マティスは大きくため息をつき、引き出しの奥から羊皮紙の丸まった古地図を引っ張り出した。
「……聖導機構の連中が血眼になって探してる訳ありの理由には、深入りしねえよ。だがな、あんたらの背後に張り付いてる死神の正体は教えといてやる」
マティスが卓に広げた地図の端を指差す。
「一時間前、東の関所から急報が入った。機構の異端審問官が、軍用騎獣の部隊を率いてこの街に向かってる。……それも、特級の危険人物だ」
「特級……?」
「『鉄槌のヴァルター』だ。教義に逆らう者は、女子供だろうが街ごと粉砕する狂信者だよ。……もうすぐ、このサン・ヴァルの正門に到着する頃だろうぜ」
その名を聞いた瞬間、ヒルデの眼光が鋭く細められた。
機構に属さぬ彼女でさえ、その異名は嫌というほど耳にしている。純粋な暴力と重装甲で異端を肉塊に変える、歩く攻城兵器。それがヴァルターという男だった。
「……上等だ。追いつかれる前に崖を降りる」
「表の昇降機はもう使えねえぞ。機構の息がかかった自警団が封鎖に動いてる。……裏口を使え。昔、密輸業者が使ってた廃棄坑道だ」
マティスは古地図の一点を黒い炭で乱暴に丸で囲み、ヒルデの胸に押し付けた。
「西の第三区画、崩れた時計塔の裏だ。そこから峡谷の底へ降りられる。……死ぬなよ、騎士様」
「恩に着る」
ヒルデは地図を懐にしまい込むと、振り返ってエレボスに顎でしゃくった。
二人の姿が廃品屋から消えた直後、街の上層から、地鳴りのような爆音が響き渡った。
◆
サン・ヴァル正門。
強固な鉄格子で守られていたはずの防壁は、紙屑のようにひしゃげ、吹き飛んでいた。
「な、なんだ貴様らは...! ここは中立の交易都市だぞ!」
土煙の中で尻餅をつく都市の警備隊長を見下ろし、黒鉄の巨躯がゆっくりと歩みを進める。
「機構の光が届かぬ影の街……やはり、泥虫の臭いが鼻をつく」
ヴァルターは、片手で軽々と持ち上げた巨大な光線斧の刃を、石畳に無造作に擦り付けた。
火花が散り、空気を焼き焦がすような高熱の魔力が周囲の温度を急激に引き上げる。
「裏切り者の騎士と、それに付き従う悪魔がこの街に入り込んだはずだ。匿う者は同罪とみなし、異端としてこの場で『浄化』する。……さあ、ネズミの穴を教えろ」
有無を言わさぬ暴力の化身を前に、警備隊長は恐怖に顔を引き攣らせ、ガチガチと歯を鳴らした。
「し、知らない...! 我々は何も――」
「そうか。ならば、見つかるまで瓦礫を退けるだけだ」
ヴァルターが斧を高く振り上げたその時、一人の黒装束の斥候が駆け寄ってきた。
「ヴァルター様! 下層の第三区画にて、該当の二人組らしき影が廃棄坑道へ侵入したとの報告が!」
「……逃げ足の速いネズミだ。だが、袋の鼠には変わりない」
ヴァルターは斧を背に収め、冷酷な笑みを浮かべた。
「部隊を展開しろ。崖上から峡谷の底へ向けて、一斉に術式砲撃の準備だ。ネズミが這い出る前に、巣穴ごとすり潰す」
◆
冷たい風が、下から上へと吹き上がる。
ヒルデとエレボスは、暗く湿った廃棄坑道の岩肌を這うようにして、峡谷の底へと続く鉄の階段を下りていた。
眼下には、光すら届かない漆黒の闇(断層)が口を開けている。
「……おい、ヒルデ。上が随分と騒がしいぞ」
エレボスがフードを押さえながら、頭上を見上げた。
遥か上方の岩壁の隙間から、赤い魔力の光がチカチカと瞬き始めているのが見える。包囲網が完成しつつある証拠だった。
「気にするな。前だけ見て歩け」
ヒルデは短く答え、エレボスの前を歩きながら、迫り来る岩の破片や障害物を剣の柄で黙々と払い除けていく。
その脇腹の傷からは、無理な動きによって再びじわりと血が滲み出していたが、彼女は微塵も顔に出さなかった。
「……お前、血の匂いが強くなっているぞ」
「気のせいだ」
「嘘をつけ。私の嗅覚を舐めるな」
エレボスは不満げに舌打ちをした。
かつての強大な魔力があれば、追っ手ごとこの崖を吹き飛ばすことも容易かった。だが、今の脆弱な器では、ヒルデの背中を追うことしかできない。それが酷く歯痒かった。
その時、頭上の岩盤が大きく震えた。
「――来るぞッ!」
ヒルデが叫ぶと同時に、上空から降り注いだのは雨ではなく、無数の赤い閃光だった。
機構の部隊による、崖下への無差別な術式砲撃。
轟音と共に岩肌がえぐられ、二人が立っていた鉄の階段が飴細工のように崩れ落ちていく。
「チッ……!」
足場を失い、宙に投げ出されるエレボスの小さな体を、ヒルデの力強い腕が空中でガッチリと抱き留めた。
砲撃の閃光が闇を照らす中、二人は崩落する瓦礫と共に、底無しの峡谷へと真っ逆さまに落下していった。
(第14話へ続く)




