第12話:『歪みの聖所』
第4章:『黄昏の断層と、鉄槌の影』
第12話:『歪みの聖所』
白銀の蝋燭が、静かな炎を揺らしていた。
大聖堂の最奥、一般の聖職者すら立ち入りを禁じられた暗聖堂。
大理石の壁面に刻まれた古代の幾何学模様の中央で、クラリスは静かに膝を折っていた。
純白の修道服に身を包み、胸元で組まれた指先は絹のように細く、白い。
閉じられた長いまつ毛が、薄暗い部屋の中で繊細な影を落としている。その姿は、聖導機構が誇る清廉なる「最高審問官」そのものであった。
しかし、誰もいないこの密室で彼女が祈りを捧げている対象は、機構が奉る正統な神の像ではない。
台座の上に浮遊する、漆黒のガラス瓶。
その中に封じ込められているのは、かつて魔界の本拠地で滅んだ大悪魔ヘメラの跡地から、機構の極秘調査隊が回収してきた『神の残滓(結晶)』であった。
「……あぁ、ヘメラ様……」
クラリスはそっと目を開けた。
ルビー色の美しい瞳の深淵に、正気を疑うほどに冷たく、深い狂熱が宿る。
硝子越しに流れ込んでくる記憶の残滓――2年前、絶対であったはずの神が討たれ、その聖なる核が、不完全な『エレボス』という泥に塗れた器へと零れ落ちたあの瞬間の光景。
「哀しいことです……。あなたの聖なる核が、今また人間の浅ましい毒によって汚されているとは……」
ヘメラの核を宿したあの『器』は今、人間として生き、人間に懐き、温かいスープを口にしているという。
クラリスにとってそれは、耐えがたい神への冒涜であった。神の核が人間ごときと同調し、落ちぶれているなど、あってはならないのだ。
「待っていてくださいね……。あの器に溜まった『不純物』を、すべて削ぎ落として差し上げますから。……あなたが完全な姿で目覚めるために」
カツン、と甲冑が石床を叩く重厚な音が静寂を破る。
クラリスは一瞬で表情を消し、ガラス瓶を袖の中に隠すと、完璧な「最高審問官」の顔を作って振り向いた。
「失礼する、クラリス審問官」
黒鉄の重装甲に身を包んだ巨漢――武闘派の『鉄槌』ヴァルターが影から姿を現す。
「出撃の準備は整った。『叛逆の女騎士』と『危険指定悪魔の器』の居場所は特定している。サン・ヴァル下層の断層を越える前に、我が刃で両者の首を断ち切ってこよう」
「首を……断ち切る?」
クラリスの声はどこまでも可憐で、静かだった。だが、ヴァルターほどの猛者をして思わず息を呑ませるほどの絶対的な冷酷さが、そこに宿っていた。
「ヴァルター。機構の資産を損なう気ですか?」
クラリスは立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
「『悪魔の器』は回収し、機構の地下で封印・解析を行う重要な検体です。一筋の傷をつけることも許しません。……私が処分を認めたのは、危険な異端者であり、器を暴走させようとしている逃亡兵――あの女騎士だけです」
「……対魔部隊『鉄鎖』の生き残り、ヒルデのことか」
「ええ。機構を裏切り、悪魔の力を引き出して世を惑わす害虫です」
表向きは「機構を脅かす異端の処罰」という名目を口にしながら、クラリスの胸中では激しい憎悪が渦巻いていた。
(あの女が……ヘメラ様の聖なる核を毒で汚している……!)
「ヴァルター。あの女の四肢を叩き折りなさい。……ですが、息の根だけは繋いでおくのです」
「……殺さぬのか?」
「聖導機構の法に従い、異端審問の場で公に裁く必要があります。……己が侵した愚かな冒涜の重さを、その身に刻ませるために」
うっとりと伏せられた睫毛の奥で、クラリスは真の目論みを反芻する。
(ヘメラ様が再誕される儀式の前で、あの女に見せてあげるのです。己が注ぎ込んだ毒がすべて削ぎ落とされ、器が解体されていく様を……)
「……承知した。器は無傷で回収し、女騎士は連行しよう」
ヴァルターが頭を下げて去り、再び訪れた静寂。
クラリスは袖から漆黒のガラス瓶を取り出し、いとおしそうに頬を寄せた。
「……すぐに向かいます、ヘメラ様。機構の愚か者たちも、あの女も……すべて私の手の上です。今度こそ、あなたを完全な神として、この世にお戻しいたしますわ……」
◆
荒々しい西風が、断層の吹き下ろしとなって吹き抜ける。
広大な亀裂の崖壁にへばりつくように作られた交易都市『サン・ヴァル』。黒砂の舞う門をくぐり抜けた時、ヒルデは歩みを緩め、短く息を吐いた。
「……着いたぞ、エレボス」
ヒルデの脇腹には、血こそ止まったものの、いまだ深く重い痛みを残す帯甲の傷跡が痛む。歩幅を狭め、隣を歩く小柄な影の速度に合わせながら、静かに街道を見渡した。
大きなローブのフードを深めにかぶったエレボスもまた、時折足元をふらつかせながら、不機嫌そうに小さな息をつく。追撃を逃れて人目を避け、険しい迂回路を辿ってきた二人の体は限界に近かった。
「……砂の匂いがする。鬱陶しい街だ」
「風が遮れる分、外よりはマシだ」
ヒルデは短く答え、ポンと自分の胸当てを叩いた。革の擦れ合う鈍い音が響く。
「服を探す。これからの西風は、その薄布一枚では凌げん」
言葉少なく露店街へ向かったヒルデは、軒先に並ぶ品々へ真剣な視線を向けた。
腕組みをし、しばらく無言で検分した後に指差したのは -分厚い鉄板を仕込んだ防寒鎖帷子と、硬く鞣された無骨な炭鉱作業用外套だった。
「……これなら風も切りつけも通さん。頑丈だ」
「……バカなのか、お前は」
エレボスは呆れ果てた目で、ヒルデが提示した武具を見上げた。
「俺の脚力を考えろ。そんな重鉄の塊を着せられたら、歩く前に潰れる」
「……防寒と防具は兼ねた方が効率が良いと思ったのだが」
「却下だ。重い、硬い、動けない。……どいていろ、自分で選ぶ」
エレボスは眉をひそめてヒルデの腰元を軽く小突き、隣の布地屋へ向かった。
店頭に並ぶ布地を小さな手で確かめ、風を通さない織りの密度と軽さを吟味していく。
「……これと、これにする」
エレボスが選んだのは、やわらかく密に織られた暗紺色の防砂ポンチョと、内側に羊毛が裏打ちされた軽量のコートだった。首元を覆うしなやかなスカーフも添えられている。荒天の西風を防ぎつつ、身軽さを殺さない理にかなった仕立てだった。
購入を済ませ、新しい服に袖を通したエレボスを、ヒルデは無言で見つめた。
「……似合っている」
短くそう告げると、ヒルデはエレボスのポンチョの首元を少しだけ整え、風が入らないように結び目を締め直した。エレボスはフンと鼻を鳴らして視線を逸らしたが、新調された服のあたたかさに、心なしか肩の力を抜いていた。
「行くぞ。約束の飯だ」
二人が入ったのは、断層の崖際に佇む小さな石造りのスープ店だった。
乾燥ハーブと塩漬け豚肉、それから煮込まれた根菜の濃密な湯気が店内に満ちている。
「へい、サン・ヴァル名物、塩豚と白豆の辛味ハーブ煮込みだ。温まるぞ」
運ばれてきたのは、深皿に並々と注がれた、ぐらぐらと煮立つ褐色スープだった。香辛料の油が表面で跳ね、熱気が立ち上っている。
「冷まさないと火傷するぞ」
ヒルデが静かに言うと、エレボスは木製のスプーンを握り、小さく頷いた。
スープをひとすくいし、小さな唇をすぼめる。
「……ふー、ふー」
真剣な眼差しで、そっと息を吹きかける。
熱という感覚すら知らず、ただ貪るだけだったかつての大悪魔が、今は自分の手で温度を確かめている。
「ふー……ふー……」
念入りに数回息を吹きかけてから、慎重に口へ運ぶ。
「……ん」
スープの熱さと、豚肉の塩気、香草の深いコクが、じんわりと温かく胃を満たしていく。
「……どうだ」
「……悪くない。ハーブの雑味と肉の油が、程よく冷めて馴染んでいる」
「そうか」
ヒルデは短く頷くと、己のスープを静かにスプーンですくい、口へ運んだ。
湯気の向こうで、熱を確かめながら黙々とスプーンを動かす小さな相棒の姿を、彼女は穏やかな眼差しで見つめていた。
崖の街を吹き抜ける冷たい西風の中。
束の間の静けさと温かな食卓が、手負いの二人を包み込んでいた。
迫りくる鉄槌の影が、すぐそこまで迫っていることなど、二人はまだ知る由もなかった。
(第13へ続く)




