第11話:芽吹く理(ことわり)と、二人の明日
第11話:芽吹く理と、二人の明日
「私はヘメラの影でもなければ、お前たちの玩具でもない! 私は……熱いスープを食い! 不器用な服に腹を立て! あのバカな人間と泥を這いずる……『私』だッ!」
エレボスの魂を震わせる叫びが月夜の花畑に響き渡った瞬間、彼の足元から溢れ出した黒い蠢動が劇的な変貌を遂げた。
かつて世界を破滅へと追いやった大悪魔の影――それはただ触れるもの全てを食い荒らし、灰燼に帰す冷酷な破壊の残滓だった。だが今、幼い肉体の輪郭を越えて解き放たれた黒は違っていた。宵闇の底で力強く開花する漆黒の大輪のごとく、しなやかに、精神の昂ぶりとともに夜空を舞う。
「な……!? これは……影……!? いいえ、違う……あのお方の冷厳な魔力とは、根本から質が異なる……!?」
クラリスの氷のように整っていた輪郭が、初めて激しい狼狽に引きつった。
エレボスの背後で幾重にも渦を巻き、棘となり、刃となって咲き誇る黒の奔流。それは旧世界を統制していた冷酷な理の力などではない。傷つき倒れる女騎士を護りたいという焦燥、この不器用な人間とともに明日を迎えたいという激しい情動――人間としての泥臭い感情と結びついた、全く新しい『守護の影』だった。
「退けぇぇぇッ!!」
エレボスが小さな両腕を前方に振り抜くと、黒い花弁のごとき影が一斉に夜気を薙ぎ払った。
その影は、頭上から網の目のように照射されていた断罪の光を丸ごと呑み込み、咀嚼し、相殺する。さらにはクラリスが絶対の自信をもって展開していた光の結界術式を、その内側から圧倒的な質量で破砕していった。
ピキ、と亀裂が入ったかと思うと、次の瞬間にはパラパラと硝子細工のように砕け散る光の粒子。その渦中を影の旋風が苛烈に突き抜け、クラリスを取り囲んでいた聖導機構の執行人たちを、大地ごと豪快に吹き飛ばした。
「くっ……ああっ……!?」
防壁を根底から打ち砕かれたクラリスは、衝撃波を正面から浴びて後方へ不格好に吹き飛んだ。
幾重もの祝福が施されていたはずの白銀の法衣は、泥と踏みにじられた花弁で惨めに汚れ、端正に整えられていた金髪が乱れ飛ぶ。
「バカな……あり得ない……! あのお方の器が……『あの完璧なヘメラ様』の実験体が……! 人間などという下等な存在の不確定な雑味を受け入れ、新たな理を芽吹かせるなど……! あのお方が、感情などという脆弱な欠陥を選ぶはずがない……ッ!!」
クラリスは乱れた金髪の間から、血走った瞳でエレボスを凝視した。
彼女がその半生を捧げ、神のごとく崇拝してきた『絶対の統制者・ヘメラ』。その象徴であり、地上に遺された唯一の聖域であるはずの幼体が、泥に塗れた人間の騎士と心を通わせ、自らの意志で『感情』を選び取り、己の信じる神聖な光を打ち破ったという現実。
それは単なる敗北ではない。彼女の存在理由、信仰の歴史、そしてヘメラに捧げてきた己の人生そのものを根本から否定されるに等しい、凄絶な絶望だった。
「歪んでいる……! 汚されているわ……! 許さない……絶対に認めない、認められるものか……ッ!!」
クラリスは爪が肉に食い込むほど強く胸元の聖印を握り締め、吐血しながら狂乱の叫びを上げた。
胸中を焦がすのは、純粋な激怒を超えた歪んだ執着。幼体奪還という任務は失敗に終わったが、彼女の瞳に宿る暗い炎は消えるどころか、より深く、ドロドロとした狂気に煮え立っていた。
「覚えていなさい、哀れな女騎士……! その器に刻まれた偽りの生を、あのお方の身体に混ざり込んだ薄汚い不純物を……私が必ず、この手で『浄化』して削ぎ落として見せます……! 絶対に……ッ!」
空間を歪める光の退避術式が起動し、クラリスの身体を包み込んでいく。
光が完全に収束し、彼女と残存部隊が掻き消える最後の瞬間まで、その凍てつくような殺意の視線は二人に注がれ続けていた。
――静寂。
苛烈極まる光の嵐が去り、踏みにじられた花畑に、ふたたび穏やかな月光が降り注ぐ。
「……ハァ……ハァ……っ……」
新しく芽吹かせた影の魔力を全て使い果したエレボスは、糸が切れた人形のように膝からがくりと崩れ落ちそうになった。高熱と過剰な魔力行使により、視界は激しく揺れ、意識が遠のいていく。
だが、その小さな身体が冷たい泥に伏す前に、血と汗と硝煙の匂いを纏った武骨な腕が、優しく、けれど受け止めるように抱き留めた。
「エレボス……」
ヒルデだった。
光の刃に幾重にも刻まれ、甲冑は砕け傷口からは今なお赤黒い血が滴り落ちている。満身創痍という言葉すら生ぬるい状態でありながら、彼女はその肉体の激痛など意識から締め出したかのように、抱きかかえた幼い相棒の温もりだけを確かめていた。
「見事だ……。あの影は、ヘメラのものでも何でもない……お前自身の力だ」
ヒルデの声はかすれて掠れていたが、そこには揺るぎない確信と、胸を打つような誇らしさが込められていた。
「……フン」
エレボスはヒルデの胸にすっぽりと収まり、ぐったりと体重の全てを預けたまま、掠れた声でそっぽを向いた。
「当たり前だ……言ったはずだぞ。私は、お前の足手まといになるつもりなど毛頭ない……。不器用で、無鉄砲で、服の選び方も知らん保護者に……いつまでも庇われるだけなど……御免だからな……」
口では強がりを叩きながらも、エレボスの小さな指先は、ヒルデの破れた革鎧の端をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握り締めていた。
震える手から伝わってくるのは、強がりとは裏腹な、生へのしがみつきと、目の前の騎士に対する絶対の信頼。
ヘメラのスペアとして生きる無機質な道など、最初から存在しなかった。
熱すぎるスープに悶絶し、冷たい甘味に頭を抱え、服の肌触りに密かに心躍らせる。そして自分を守るために泥を這いずり、傷ついていく愚直な女騎士の背中を、対等な目線で追いかける――これこそが、エレボスが激痛と葛藤の果てに、自らの意志で掴み取った『人間としての生』だった。
ヒルデは抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
二人の胸の鼓動が、鎧越し、服越しに重なり合い、確かなリズムを刻む。
言わなければならない感謝も、互いを思いやる甘い言葉も、二人には不要だった。
ただ交わされる呼吸と、互いの皮膚から伝わる体温だけで十分だった。二人はもはや「保護者と孤児」でも「騎士と大悪魔」でもない。互いの欠落を埋め合い、同じ地平に立つ、世界で唯一の『相棒』なのだと、その沈黙が雄弁に語っていた。
「……行くぞ、ヒルデ」
エレボスが、重い瞼を少しだけ持ち上げて言った。
「奴の残像を見た。……西の果て、『崩落の峡谷』という地域のどこかに、ヘメラの研究所が隠されているらしい。あいつは私を不完全な器に閉じ込め、どう崩壊するか観察していた……。ふざけた実験だ。まずはその峡谷を目指し、手がかりを片っ端から洗うぞ。……足枷を叩き割り、お前ともっと色んなものを食べるためにな」
「……ああ」
ヒルデは血と泥に汚れた顔を歪め、どこまでも誇らしげに、心底嬉しそうに口元を破顔させた。
「そうだな! 次はもっと美味い店を探しておこう。服選びも……次は絶対に失敗しないよう、街の仕立て屋に教いを請うておく」
「……当然だ。次はもっとマシな服を選べ。……二度と、あの革甲冑のような木偶を着せるなよ……」
言葉の語尾が小さく丸まり、エレボスは満足そうに小さく鼻を鳴らすと、ヒルデの温もりに包まれたまま静かに目を閉じた。規則正しい寝息が、夜の花畑に小さく落ちる。
ヒルデは大剣を杖代わりにゆっくりと立ち上がった。
全身を殴打されたような激痛が走ったが、腕の中にある小さな命の重みが、不思議と彼女の脚に力を与えてくれた。
月夜に舞い散る花々の中、満身創痍の女騎士は、小さく眠る相棒をしっかりと抱き直す。
背後に残された街の灯りと、これから向かう果てしない西の街道を見据えながら、二人は確かな一歩を踏み出した。
(第3章・完 / 第4章へ続く)




