鬱屈から抱擁
高校選抜沿岸ブロック予選が終了して数日後、薙沢県に帰還し、日々の練習に戻った国教大附属ボクシング同好会。
地御前栄代が開学以来初の全国大会出場という結果を引っ下げての凱旋ではあったが、学校サイドの反応は極めて薄く、全校集会などでの発表もされなかった。
校長室で簡易な表彰式が取り行われたのみであった。
それでもなお、休む間もなく再来週に控えたTEAM Thailandとの試合に備えて鍛える生徒たちとそれを見守る顧問の西木匠。
日常が戻ったかのように見えて心の中に引っかかりを感じている者が1人。
他ならぬ顧問の西木だった。
あの時、緊急会議の後に聞かされた黒木達也唐河中央高校ボクシング部監督の独白。
その時の苦渋に満ちた黒木の表情。
緊急会議のきっかけとなった西木の生徒である井口崇通の試合で発生した事件。
その何れにも沿岸ブロックボクシング界を激しく敵視している平城山体育大学ボクシング部監督、多満井穐比子が関与していた事は疑いようも無かった。
あれからまだ1週間も経っていないのに、その余波は各所にかなり影響を及ぼしていた。
特に一方の当事者となっていた桑村産業高校ボクシング部の場合だと、ブロック大会で優勝を決めたにも関わらず優勝した当人が全国大会のメンバーから外された。
この事実に対し、ボクシング部員の保護者たちが騒ぎ始め高南県ボクシング連盟に説明を求めたところ、件の試合動画付きで回答があり、さすがに事態を重く見た学校サイドが動き始めた。
まず、指導や引率を外部コーチに丸投げして練習にもほとんど関わっていなかった顧問の教諭は即時ボクシング部の担当から外され、さらに即時廃部も検討されていた。
だが、保険体育の非常勤講師が引き継ぎを強く希望したため、ボクシング部は顧問が交代するという形で存続となった。
当然だが、これまで外部コーチとしてボクシング部に出入りしていた平城山体育大学OBたちは一連の騒動の元凶として桑村産業高校ボクシング部への出入りを禁止されることとなった。
西木は思う。
結局、多満井は色々と手回しをして散々妨害行為を行いはしたが、結果としてせっかく高南県に築いた筈だった自分の拠点をわずかな期間で失うこととなった。
確かにこちらも実害を被ったが、多満井の自縄自縛な側面を考えると結局、あの男は何がしたかったのかと思えてくる。
以前に西木が想定していた通り自滅に向かっているとしか思えない。
ただ、だからと言って敵失とも言える今回の事態を見ても妨害行為に巻き込まれた鬱憤が晴れるものではない。
事実ボクシング同好会の生徒である井口は負わなくても良い傷を負うはめになり、沿岸ブロックボクシング連盟審判委員長の黒木は将来を託そうとしていた有望な人材を切ることとなってしまっていた。
そうやってこちらの気分が鬱屈する姿を見るために多満井は拠点を失い取り巻きを排除されるという代償を支払ったとも言える。
計算尽くだったとしたら、あまりにも悪趣味な性格をしていると言わざるを得ない。
練習が一段落つき、ミーティングも終えた後、西木はまっすぐ帰宅する気になれず、1軒のバーに立ち寄った。
昨年末、保護者会主催の忘年会の後に弥能礼文を誘い、軽く飲んだ店である。
西木は止まり木に座ると、ショットグラスで無色透明の酒とミックスナッツを注文し、ゆっくりと口を湿らせ始めた。
そして堂々巡りな思いにふけっていた時である。
「先生?」
上品かつ美しい呼び声が背後から耳に届く。
声の主はやはり、というべきか、弥能礼文その人であった。
「・・・偶然、なんでしょうか?」
そう言って笑顔を向ける西木に礼文はやや頬を染めながら
「今日は本当に偶然ですわ」
そう返事して微笑む。
なんでもこの店を西木に紹介されて以来かなり気に入った様子で、時々1人で訪れているとのこと。
「今日は社内コンペで企画が採用されましたので、ささやかなお祝いをしようと思いまして」
礼文の言葉に西木はキョトンとした表情を浮かべる。
「企画、ですか?礼文さんは確か秘書課にお勤めでは?」
「薙沢の支社は企画部がメインですので、転属を希望するにあたりまして部所異動も申請して受理されていたんです」
礼文が勤めている企業は誰もが知っている超有名大企業であり、その秘書課ともなれば誰もが羨む花形エリートの部所だと思われるが、言うなれば西木に近づくためだけに、そのエリートコースを離れて薙沢県まで来たということになる。
ポカンとした顔の西木を前にして、さらに頬を赤くした礼文が
「でも先生、今のうちに色々な仕事を経験しておきたいと思ったのも事実です。それに今日は先生とお会いできて一番のご褒美をいただけた気分ですわ」
そういった時、西木は
「ハッ」
と気づいた。
「これはすみません。すっかり立ったままお話しさせてしまって。どうぞお座りください。ゆっくりお話ししましょう」
慌てて礼文に隣に座るように促す西木だった。
相変わらず恥ずかしそうにうつむきながら、
「それでは先生、失礼いたします」
と、おずおずと席に着いた礼文。
そんな彼女の様子を見て西木はふと自分が抱えている鬱屈を話してみようかと考えた。
愚痴を言うようでみっともない気もしたが、こういう話を聞いてもらうには信用ができる女性であるという思いの方が勝った。
「何か頼みましょうか?」
西木に聞かれて礼文は西木の手元を見て言った。
「先生と同じものをいただきます」
その言葉にバーテンの様子が一瞬固まったかのように見えた。
ショットグラスに入った無色透明の酒を礼文は一口含むと
「先生、何かお話したいことがおありではありませんか?」
西木が口を開く前にそう尋ねてきた。
それに対して少し目を丸くして礼文を見つめた西木だったが、特にそれ以上は心の揺らぎを見せずに頷いた。
「お見通しですね。敵わない・・・けど、よく見てくれているのが嬉しいですね」
何気なくそんなセリフを口にする西木に対して頬を染めて少し上目遣いで恨めしげに見返してくる礼文。
その様子がまた何とも常日頃のクールさとの対比になって愛らしい。
礼文は
「コホン」
と小さく咳払いをすると、西木を見つめて迷いのない口調で語り始めた。
「先日の試合の時に起こったこと、そのことにつきまして、先生が大変気に病まれているお気持ちはよく理解できます。でも、あのことに関して、先生が気に病まれる必要はございません」
ちなみにだが西木は、先日の大会でどのような騒動が起こったかは、まだ礼文には話していない。
つまり礼文に西木の個人情報はダダ漏れ、ストーカー弥能礼文の本領発揮といったところだが、西木は気にした様子もなく会話を続けている。
「正直な話、僕は多満井のことなど放っておいても自滅するタイプの人だと見ていましたから、放置でいいと言いました。ただ、実害が自分の生徒や懇意にしている人に降りかかるとやっぱり堪えるな、と」
静かな口調の中に焦燥と悔しさをにじませつぶやく西木。
礼文は瞳に優しさを称えて、西木に対してなおも続ける。
「井口くんは今回のことで体に傷を負いましたが、それ以上に心が成長しました。今回のことで、今後彼が理不尽な怒りの衝動に突き動かされる事は決してないでしょう。あの子はもう大丈夫です。そしてその成長を促したのは他ならぬ西木先生なのです」
さらに礼文は黒木の件についても触れた。
「あの、塩崎という人は今後も多満井との縁を断ち切ることはできないでしょう。ですので、今回のような結末は遅かれ早かれ訪れていたのです。このことは黒木先生ほどの方なら遠からずお気づきになられます。西木先生も本当はそのことに薄々気づかれていますよね?」
礼文の言葉に西木は柔らかく微笑み無言で頷いた。
本当にその通りだと、全ては必然だったのだろうと。
礼文の言の葉に、礼文自身に抱擁され癒されているかのような気分にさせられている西木だった。
ここでふと礼文が西木に聞いてきた。
「お話が変わりますが先生、先生は前もこのお酒を飲まれてましたが、お好きなのですか?」
「ああいえ、実は僕はこのお酒以外飲めないんですよ。他はちょっと苦手でして」
「・・・そう、な・・・んで・・・・・・」
礼文が喋れたのはここまでだった。
突然、礼文の顔面が
『ぼふん!!』
という擬音とともにこれまでで最高レベルに真っ赤に染まって、そのままぐらりと体を揺らめかせると、西木にもたれかかるような格好で頭を西木の肩に乗せて
「すーすー」
と静かな寝息を立て始めた。
一瞬驚いた表情を見せた西木は赤い顔で寝息を立てている礼文を見て微笑みつぶやいた。
「絡み合っていたものがほぐれました。ありがとう・・・可愛いな」




