陥落
年が明けた。
近日中に迫った
『全国高等学校選抜大会沿岸ブロック予選』
を控えて、高南県桑村産業高校ボクシング部監督であった市川寅雄の心中は鬱々としていた。
監督に就任以来一向に振るわない競技成績に対してではない。
桑村産業高校の校風や在籍している学生たちの気風を考えるだに、当然と言えば当然の結果だとそこは受け容れていた。
生徒を指導する者がそのような姿勢ではと思われても仕方がないが、いかんせん何事につけても反応が鈍く、入学当初はしっかりとした目標を持って学生生活を送ろうとしていた生徒たちも学校全体を覆う怠惰な空気や他の生徒たちの無気力差に毒されて行くのが常だった。
これらのことを考えるつけ、去年の初めに突如として現れた薙沢県の国教大附属ボクシング同好会には驚かされてばかりの市川だった。
自分たちと似たり寄ったりな環境で、尚かつまるで思い付きのように作られたボクシング同好会。
それが競技の常識を覆すような驚異的な速度で成長し、今や沿岸ブロック強豪チームの一角として認知されているほどである。
しかもそれを率いているのが、競技者経験のない一介の美術教師だと言うのだから、驚きを通り越した感情の持って行き場に困ったものである。
顧問である美術教師、西木匠は
「巡り合わせが良かったんですかね?」
と、言っていたが、実際に合同練習や国教大附属での練習の様子を収録した動画などを見てみると、選手たちが伸びているのも納得できる向き合い方だと市川は感じていた。
そして頭が化石化している自分には到底できない向き合い方だとも。
問題児として有名だった天才、井口をコントロールして、地御前と言う異能者をボクサーとして確立し、客野と言う才能を真っ直ぐに成長させ、銀山と言う安定感の持ち主を更に地に足をつけ、江波の柔軟性に更に裏付けのある技巧を与えた。
そして、どう見てもスポーツ経験すら無かったであろう宮内までも短期間でボクサーとして見られるレベルまで引き上げている。
遠からず宮内も一廉の実力を身につける事だろう。
市川はそう睨んでいる。
そんな中、市川を鬱々とした気分にさせること、それは年明け前の先々月ぐらいから、出身大学である平城山体育大学のボクシング部OB複数名から頻繁にコンタクトがあることだった。
確かに出身大学であることには違いはないが、市川自身にとっては全く思い入れというものがなかった。
今は亡き父親の強い勧めで入学したのだが、確かに西日本大学1部リーグの強豪校ではある。
だが、とにかく学生の質が最悪だった。
品性劣悪にして、新聞沙汰になっていないだけの警察沙汰がいくつも見受けられた。
ボクシング部内の空気も非常に悪く、言うなれば今、自身が監督を務めている桑村産業高校そのものが非常に近い、礼節が欠如した幼稚な空気。
特に同期生である多満井穐比子の傲慢かつ横柄な人間性と他者を見下す態度には辟易とさせられていた。
「競技能力と人間性が別物であるということがよくよく証明されている」
平城山体育大学ボクシング部を評する時によく聞かれる言葉である。
多満井穐比子はその典型だった。
群れる事、徒党を組むことを好み、その中でする会話の内容といえば他者に対する誹謗中傷。
それでいて競技力は高く、全日本選手権を制したこともある。実力を持っていた。
市川は退学して違う大学を受験し直したかったが、あの時の時点で父は平城山体育大学ボクシング部のOB会長であり、そんな希望が通るはずもなかった。
結局、4年間を惰性で過ごしリーグ戦などに出場する事もなく、逃げるように卒業。
教職課程を専攻していた事で体育教師となり、数年前から桑村産業高校に赴任していた。
平城山体育大学の同窓会にもボクシング部の OB 会にも一切参加せず、桑村産業高校の、どこか大学時代に似た弛緩した空気の中で、惰性のまま競技指導を続けていた。
そして、国教大附属ボクシング同好会と言う新興勢力からいい意味での刺激を受け始めたのと同じ時期に平城山体育大学ボクシング部OBの影がちらつき始めたのであった。
接触してきたのは、先頃の対キューバジュニアチーム戦において、国教大附属の選手に対して不可解なジャッジを行い、サスペンドを食らっていたうちの1人だった。
「母校の OB が監督を務めている高校の選手の世話がしたい」
という大義名分をかざして頻繁に桑村産業高校ボクシング部に顔を出しては、部員を指導して外部コーチのごとく振舞っていた。
市川にとっては迷惑な話だったが、建前は善意での手伝いだったために無下にもできなかった。
そうこうしてるうちに、外部コーチを気取った平城山体育大学ボクシング部OBの出入りが1人増え2人増え、そうしてこの桑村産業高校ボクシング部の部員たちは市川よりも外部から来たコーチの指示に従うようになり始めた。
(情熱を持たずに惰性でダラダラ指導をしていた俺にも責任はある)
そう、思い定めた市川はボクシング部の指導から外れることとなり、新たに別の教員が顧問に就任し、桑村産業高校ボクシング部は実質、平城山体育大学ボクシング部OB、そして多満井穐比子とその取り巻きたちの手に落ちることとなった。
その間わずか2ヶ月足らず。
多満井穐比子は沿岸ブロック高南県に拠点を得たのであった。




