(閑話)兄妹
たった今、日本ボクシング連盟発行の
『ボクシング競技に関する安全管理マニュアル』
というレジュメに目を通し終わったところです。
大切な内容なのでしっかりファイリングしておきたいと思います。
僕は薙沢県立中央病院脳外科・脳神経科の医師として務めております。
近頃ですが薙沢県ボクシング連盟医事委員長を拝命いたしました外薗峰允36歳婿養子の既婚者です。
ほんの数ヶ月前のことなのですが、僕の元に国教大附属国際高校のボクシング同好会顧問を名乗る先生が来られまして、様々なお話を拝聴させていただきました。
僕は他県からこちらに赴任してきた者で、着任早々にこの県の教育、人材育成に関するシステムの歪さを思い知らされました。
学生生活において課外活動すなわち部活動が機能しておらず、それでも部活動をやりたければ他県でやってください、みたいな県全体の教育に対する姿勢に、さすがに今の時代SNSの恩恵とでも言うのでしょうか?
この状況が一部の配信者によってどんどん拡散され、県の関係者も違う意味での危機意識を持ったかと思われます。
薙沢県教育推進理念を体現してると言われている高校、つまり、国際教育大学付属国際高校通称国教大附属国際高校が外圧に耐えきれずという形でボクシング同好会を立ち上げ、その顧問として抜擢されたのが美術教師である西木匠先生ということでした。
物静かな中にもしっかりとした芯を西木先生に感じた僕は彼の申し出である
「医事委員長として薙沢県ボクシング連盟への参加」
を幸いにして病院、医局からの了承もすんなり得ることが出ましたので承諾いたしました。
そしてこの話はここからちょっと斜め上の方向に展開していくことになろうとは、僕はこの時予想だにしていませんでした。
とある日のこと、今日は午後休診日なのでちょっとした予定を挟み込んでおりました。
実は僕には10歳年下の妹がおりまして、名を弥能礼文・・・ちょっと変わった名前かとお思いでしょうが、実は僕の父が男子が生まれると勘違いして準備していた名前だったそうです。
男子だった場合どういった読み方をするのかは僕にはわかりません。
そんな雑な感じで命名されてしまったいささか不憫な妹なのですが、彼女はそんなことを感じさせないくらい、はたから見れば、誰もが羨むような見事な女性として成長していたのです。
一体どこで覚えたのか、誰が教えたのか、全くわかりかねますが所作優雅にして温雅、言葉にするならば見目麗しいを体現していると言って良い立ち姿。
しかも誰もが知る超一流の企業勤めで、今では秘書室に配属されているとかなんとか・・・
別にシスコンでもない兄である僕でさえ、ここまで言うのですから第三者から見ればどれほどのものか・・・
実は今日の午後、僕はその妹である礼文と会う約束をしていたのです。
会うのを希望してきたのは礼文の方からでした。
何か聞きたいことがあるそうで、気を使ったのか
「私からのお願いですからお兄様の都合のいい時間と場所をお伝えください。」
とのことでした。
そういうわけで、この日の昼過ぎに職場である薙沢県立中央病院の社員食堂でランチでもしながらゆっくりと話をすることにしたのです。
え?
社員食堂のランチなんてケチ臭いこと言わずにどこかいいところで食事させてあげればいいじゃない?って?
いえいえ、この病院儲かっているのか社員食堂のレベルがめちゃくちゃ高いんですよ!
日替わりのランチなんて、普通にこのレベルでワンコインなんて外食なんかしたらありえないですからね。
それに礼文もうちの社食のことは知っていましたから、ここでランチを楽しむことを話したら結構本気で嬉しそうにしていました。
社員食堂の席についてゆっくりしていると、周囲がざわめく気配がしました。
・・・来たな・・・
と思ったらまさしく、今日は仕事も休みだったようで妹が好んでよく着る紺色のワンピース姿で、スレンダーな体型によく似合っていると思います。
黒髪ロングストレートの髪を後ろでひとまとめにし、見るからに清楚な和風美女の佇まい。
我が妹ながら圧倒されますね。
「お兄様、申し訳ございません。こちらからの声かけなのに遅れてしまいまして」
「あぁ、気にしないで。今日は僕も午後休診だし、だから余裕を持って待っていただけだから」
「お気遣いいただきありがとうございます。お兄様、お腹がお空きでしたら、先にお食事を楽しまれますか?私のお話はそれからでも大丈夫ですので」
こういうことを言う時の妹は実は早く話をしたがっている。
このくらいのことは長い付き合いですからね。
兄として察することができます。
「まぁ空腹なのは確かだから、ゆっくり食べながら話そうじゃない?君もわざわざ県外から来たぐらいだから結構大事な話なんだろう?」
そうなんです。
実は妹、礼文は移動距離が数時間単位の県外住まいなんですよ。
だからこれで僕に直接会って話したいことがあるっていうのは、彼女にとってかなり大事な話だってことなんでしょうね。
礼文は少し考える様子を見せた後、
「ありがとうございます。そうですね。それでは、お兄様のおっしゃる通りにお食事をしながらゆっくりお話しさせていただきます」
そう言って軽く目礼を返して来ました。
本当にどこでこの所作が身についたのか、つくづく不思議に思ってます。
今日の社食のランチメニューは
『白身魚のマリネ冷製スープとサラダ』
これ、外のレストランで食べたら軽く1000円の壁×3は突破するレベルの代物です。
本当ならここで白ワインでも注文したいところですが、さすがに社食にそれはない。
なんて俗物的なことを考えていたら妹の礼文が口を開きました。
「実はお兄様に教えていただきたいことがありまして、お兄様はつい最近のことですが学校の関係者・・・そうですね、教職の方とお関わりになられませんでしたか?」
「・・・教職・・・あぁ確かに最近関わりを持った教職の方はいるよ」
「・・・国際教育大学附属国際高校美術教師で元美術部顧問、今はボクシング同好会の顧問をされてます方ですよね?」
え?
結構詳しく知ってるようだけど、ちょっと待って!
「そんなに驚くほどのことでもないですよ。ちょっと学校関係のWebサイトをハッキング・・・コホン!少し調べればわかることですから」
なんだか今ものすごく不穏な単語が聞こえてきたような気がするのは気のせいでしょうか?
「うふふ、気のせいです」
・・・・そうでした、僕はすっかり忘れていました。この才色兼備である妹の幼い頃からの独特な個性を。
「お兄様はご存知かと思われますがつい最近私にお見合いの話があったにも関わらずお見合いに至る前に破談になったということがありました」
その話は僕も知ってます。
何でもお見合い相手の男性が結婚資金だったはずの貯金を結構な金額使い込んでいたことが発覚したと。
その件についてうちの父さんが相手に問い詰めたところ本人は
「自分の信念を貫き通したまでのことです!」
なんて開き直ったことで、それはもう父さん大激怒!
お見合い破談どころか、今後関わったら、相手の家族を遺族にするとまで言っていたとか、なんとか・・・・
・・・いや、ちょっと待って!ここまでの話の流れからして、ものすごく嫌な予感がするんですけど・・・
「お兄様はさすがに察しがいいですね。そのお見合い相手が先頃お兄様が友誼をお結びになられました国教大附属国際高校ボクシング同好会顧問をされております西木匠先生なのです」
・・・いやいやいや!ちょっと待って!
この会話の流れの中で僕、君に西木先生の名前言ってませんよね?
なんで、スラッとフルネームが言えてるわけなんでしょうね?
「うふふ、ちょっと調べればすぐにわかることですので」
いやいやいや、ちょっと待って!
妹よ!
それって普通にストーカー・・・・
「お兄様、何か?」
いえ、何でもありません・・・
なんだか全てを諦めた方がいいような気がしてきました。
そうなんです、妹の礼文は興味があること、気になったことに対する執着が凄まじく、まぁそれでも今まではそれが学問であったり趣味であったりでさほど問題はなかったのですが、ここに来て、ついに彼女の執着の対象が対人関係にまで及んできてしまったという・・・
えっと、それで君は西木先生になんで興味を持ったわけ?
お見合いを個人的な事情で袖にされたのが気に入らないから、文句の1つでも言ってやりたいとか?
「まさか?私は相手の方、西木先生の事情というものもちゃんと理解しております。私にとって生涯の伴侶として必要なのはまさしくああいうお方です」
待って!待って!待って!待って!!
いま
『生涯の伴侶』
って言うたね!?
「はい、お兄様どうかされましたか?随分取り乱されてるご様子ですが?」
取り乱したのは申し訳ない。
ただこの話、うちの両親が知ったら絶対に流血沙汰どころでは済まない騒ぎになると思うんですよね。
はっきり言ってうちの両親、名付けが雑だった割に控えめに言っても礼文のことめっちゃ溺愛してますから!
それが見合いであんなことやこんなことだったわけじゃないですか?
西木先生、うちの両親と顔でも合わせたら絶対ただでは済まないと・・・・
「お兄様、ご心配には及びません。私はあの方から正式に認めていただくまでは、父と母には西木先生を懸想していることは決して口にはいたしません。あの方が私を受け入れてくださった時に私は堂々と父と母に西木先生に対する想いを伝えるつもりです」
それって絶対に実行したら血の雨が降ると思うんだけどな・・・
けど、僕が実際に会って話した西木先生、確かに芸術家肌の人間らしく突拍子もないところはあるんだろうけれど、1本筋が通った青年だというのはよくよく伝わってきてました。
妹はさすがに人を見る目があるなと感心はしましたけど・・・
「そこでお兄様にお願いなのですが」
もう嫌な予感には慣れてしまった自分がなんだか不憫です。
「お兄様はこのボクシングの関係で今後西木先生と頻繁にお会いになられますよね?ご面倒なことお願いして本当に申し訳ないのですが、何かの機会で結構ですので私と西木先生が対面する場を作っていただければ、と・・・・」
・・・・西木先生・・・・すみません・・・・あとはお任せします・・・・
「西木先生、お会いできる日を楽しみにしておりますわ」
〜ほぼ同時刻、美術室。西木 匠のプライベートスペース〜
ソファーの背もたれにもたれかかってゆったりとブラックコーヒーを嗜んでいた西木匠が不意にあちこちの様子を伺い
「なんだか寒気がしたんだけど、気のせいかな?」




