第十八話 必死さを厭わずに
屋敷の留守を任されている身として雑務を終えたのち、紋章官から届いた封蝋付きの手紙を開くと、不穏な文字が踊っていることに私は嫌な予感を覚えた。
プルケリアのことは長兄に任せて放っておいたため、そろそろ昼どきなのでちょうどいい、私は様子を見に行くことにした。
ところが、応接間から出てすぐの壁際に座り込む、俯き加減の大きな体の成人男性を見て、私は一瞬どうすべきか考えあぐね——互いのためにも声をかけざるをえなかった。
「お兄様、何をなさっているの?」
「へあ!?」
驚いた拍子に壁に頭をしたたかに打ち付けた長兄は、ものともせず立ち上がった。頑強で何よりである。
まるで勉強部屋から抜け出したところを母親に見つかった子どものように、長兄は私と目を合わせず、すかさず言い訳とともに逃げ出そうとした。
「あ、そうだ、トイレ行ってくる」
私は長兄のシャツを掴み、翻した背中へ向けて冷たく言い放つ。
「そう言って部屋から抜け出してどのくらい経つのかしら。失礼でしょう?」
指摘されて気まずかったらしく、長兄はぴたりと立ち止まった。
長兄は昔から女性が苦手だった。妹である私は別として、いつもその理由として挙げるのはこの言葉だ。
「……無理だ! あんな触れれば折れそうな娘と同じ空間にいたら不安でたまらなくなる!」
「私は?」
「お前は山賊くらいなら襲ってきても返り討ちにできそうだから」
「失礼な、やったことはありませんわ」
「似たようなことはあるだろう。王宮で」
「憶えておりませんわ」
さらっと流したが、長兄も私がドニー王子を諌めた件の数々について知っているようだ。
それもあって、私には『触れれば折れそう』などと思わないのだろうが、長兄が女性に対してそう思ってしまうのは根深い事情がある。
「察するに、お義母様のことを思い出すのでしょう。お父様も未だに悪夢を見るとおっしゃっていましたもの」
声を低くして、私は長兄の持つ複雑な心情を、受け止める。
長兄は顔を背けたまま、何も言わない。軽口を叩けるような話題でもないからだ。
「イヴェルタリー伯爵家に夫人がいない慣習を代々続けてもかまいませんけれど……どこかで向き合わなくてはなりませんわ、お兄様」
少しして、「うん」という小さな声が聞こえた。
本人も分かっている。イヴェルタリーの後継者、家の存続を一身に背負う者として、わがままを言ってはいけないということくらい、己が憎たらしいほどに理解しているだろう。
しかし、幼少期に目の前で実母が殺された長兄は、愛する者を三度も守れなかった父と同じ苦しみの一端を背負っている。
その苦しみに向き合っているからこそ、私も無理強いはしない。いずれ、乗り越えるだろうと信じているし、その手伝いも喜んでしよう。
私は声のトーンを変えて、喫緊の話題を振った。
「それはそうと、紋章官から手紙が。オリアーヌという令嬢について、知る限りのことを記載してもらっているのですが」
すると、長兄はあっさり振り返った。
「何と書いてある?」
「大変おかしなことがいくつか」
「ほう」
その目は一瞬にして辛気臭い空気を一掃し、これでもかと真剣にギラつく。
頼もしい長兄を連れ、私はプルケリアの待つ応接間へと足を踏み入れた。
改めてソファに座って向かい合ったプルケリアは、愕然としてつぶやくようにこう言った。
「オリアーヌという名前の貴族令嬢は、実在しない……?」
私は開いた手紙に目を落とし、それからプルケリアへと差し出す。
専門用語も多いため、プルケリアが読むのを待つよりも、同時に話したほうが分かりやすいだろう。私は要点をまとめて話す。
「少なくとも、その名前でアルソナ王国紋章院が把握している貴族名鑑に登録されている令嬢は存在しないそうよ。東の大陸の貴族にある名前だから、もしかすると大陸の貴族なのかもしれないけれど、そこまで徹底的に調べるには各国の大使館まで行かなくてはならなくなるのよ」
絶句したプルケリアは、手紙から視線を離さない。
馴染みの紋章官は、アルソナ王国貴族のすべてを記憶しているわけではないが、その手元には信頼の置ける資料が当然あり、何より職責にかけて間違ったことは言わない人物だ。
その人物が「オリアーヌという貴族令嬢は我が国にはいない」と断言するのだから、私たちは反論できようはずがない。
実際に見た『オリアーヌという貴族令嬢』は、演じられた幻だった。
となると自然、その演者は誰なのか、という次の問題が待ち受けている。
だが、それを追及するには外交的な摩擦を生じかねず、残る可能性である外国貴族であることを確認するのは実質的に難しい。実現したとしても、今日明日でできることではないだろう。
長兄はその点よく理解しており、茶ではなく大好物のホットミルクを飲みながらうんうんと頷いていた。クッキーが山盛りになった深皿を抱えるようにしながら。
「大問題に発展しかねないな。別の可能性としては、貴族を名乗って茶会やサロンに出入りする詐欺師の類、ということも考えられるが」
それも可能性としてはありえなくはない。身分を詐称して貴族の集まりに混ざり込み、貴族の資金や名声を利用しようとする詐欺師は後を絶たない。
ただ、年端も行かない乙女がそれをやってのける、というのは、あまり聞いたことがなかった。
プルケリアもさすがに疑問に思ったのか、忌まわしい『オリアーヌ』について引っかかることを口に出す。
「それにしては……皆様、顔見知りのようでしたし、あの悪癖も知れ渡っていましたわ」
「出自不明の貴族令嬢を屋敷に出入りさせるほど脇が甘い貴族ばかりではないものね。どこかに後ろ盾がいるか、家系図でも偽造しているか。大陸から来たと言い張れば、あまり詮索しないかもしれないわね」
「しかし、アルソナ王国に、東の大陸から来た貴族がどれほどいると思う? 大使館とて照会にはまともに取り合ってくれるとは限らない、むしろ戦時中の妨害工作の一環ではないかとさえ疑われてしまうぞ」
「お兄様、そこまで問題を大きくなさらないで」
「おっと」
長兄は確認のために言葉にしただけだろうが、今も蒼白な顔をしているプルケリアへの重圧となりかねないため注意する。
プルケリアは気負いすぎるところがある。私は別の確認事項を持ち出した。
「ところで、あの婚約者はそれきり? バーラント子爵家からは何も?」
「いえ、今もお父様が対応していると思います。ただ、もう会いたくはありませんし、冷静になって話を聞くこともできないでしょうから」
「それもそうね。なら、やはりオリアーヌの正体から探っていくほうが近道かしら」
しかし、それにはいくつかの関門や壁がある。私たちの取れる手では、限界も近いだろう。
そこに、クッキーを手放して腕組みをして考え込んでいた長兄が、ふとこう言った。
「その舞踏会にいた人物の中で、もっとも偉いのは誰だった?」
プルケリアは反応したものの、答えに窮していた。意図が分からないまま性急に答えるよりも黙ったほうがいい、正しい判断だ。
長兄の質問の意図に沿う回答は、私が担うことにした。
「第二王女アミス殿下でしょう」
プルケリアは、母の友人である第二王女アミスについて知っているはずだ。自身のデビュタントである舞踏会に呼ばれるほどだし、お忍びとはいえクレランシャ伯爵家の人間ならばそのくらい把握しているものだ。
ただし、普通であれば舞踏会においてもっとも立場的に偉いのは主催者であって、第二王女アミスのような例外は滅多にない。お忍びであれば他の招待客も知らなかっただろう。
もし、知っている上で参加したのなら、それも招かれざる客が知ってしまっていたのなら——どうなる?
それに気付いたプルケリアは、身を震わせていた。
「あっ……まさか」
「アミス様はお忍びで、友人であるクレランシャ伯爵夫人の招待を受けてやってきたものの——そもそも、そこいらの貴族が顔を合わせられる機会はそうないわ。クレランシャ伯爵夫人が西の大陸出身で今も貿易業で財を成している、という特殊な事情と合わせて、もしアミス様のいらっしゃる場面に遭遇することが目的だったとしたら?」
王家の一員はそこにいるだけで価値を生じさせる。その身は黄金よりも価値を生み出すし、影響力は計り知れない。
第二王女アミス——王家の女性という存在は、それほどまでにアルソナ王国において大きい。下手をすれば、首をすげ替えればいいだけの王よりも重要かもしれない。そこいらの貴族がお目通りすることも叶わないのは、関係を持つことだけでも価値があるからだ。
そんな存在がいる場に、『オリアーヌという貴族令嬢』の仮面を被った何者かがいた。
そこから導き出される様々な危険性、最悪の想定に至るまでを思いついてしまったのだろう。プルケリアは震える声で叫ぶ。
「そんな、大変ですわ!」
「待ちなさい。まだ結論は出ていないわ」
「でも、もし王女殿下に何かあれば、私などのせいで危険が及ぶことになってしまいます!」
そこへ、長兄が即座に応じて、気の動転したプルケリアをなだめる。
「大丈夫だ。むしろ、相手はこちらが気付いて騒ぐことまで視野に入れているかもしれない。ならば決して動揺を悟られてはならない、分かるか?」
長兄の、男性の穏やかで低い声は、どこか安心感を与える。
つまるところ、臆病や心配性であることは短所ではない。行動を間違えることこそ短所だ、と長兄は分かりやすく諭したわけだ。
理に適った答えに、プルケリアはやっと我に返り、深呼吸してから頭を下げた。
「……はい。取り乱してしまいました、申し訳ございません」
「うん。第一、クレランシャ伯爵家自体も不埒者に狙われるには十分な理由がある。そうだな、トリッシュ」
「ええ。資産家であること、通常では持ち得ない貿易航路を独占的に利用していること。アルソナ王国では西の大陸との繋がりが濃い貴族はごくわずか、それも王家との親交があるクレランシャ伯爵夫人の存在は特異と言えるでしょう」
長兄が、テーブル上にある先ほどまで抱えていたクッキーの皿を、プルケリアの目の前へと押し出した。
すでに半分は食べられた山盛りのクッキーは、素朴ながらほんのりとした甘さで、新鮮なバターの芳醇の香りが立ち上る。
「疲れたか? 甘いものでも食べるといい。ここの料理長の腕は確かだ」
「ちょうどいいわ、お茶も新しく用意させましょう」
話は大分煮詰まって、進展もしている。ここで休憩を入れるのはちょうどよかった、長兄の気遣いには助けられている。
私が待機しているメイドを呼び、色々と申し付けている横で、プルケリアは大きなため息を吐くほど落ち込み、反省しきりだった。独白のように言葉をこぼす。
「私は、何も知らなかったのですね。母のことや自分の家のことさえも把握しておらず、付け入られる隙さえ分かっていなかったなんて、本当に汗顔の至りですわ……」
意外なことに、そこに真っ先に慰めの言葉をかけたのは、長兄だった。
「まあ、『知識は力なり』という。その時々で敵は違うとしても、己を知ることはいつでもできる。やっておいて損はないぞ」
数秒、間が空く。
プルケリアは長兄の言葉をストレートに受け止め、飲み込んだらしく、あっという間に気分を切り替えてしまった。
「そうなのですね。分かりました、ウルフスタン様のおっしゃるとおりですわ。悔やんでばかりもいられません、前を向かないと……!」
「う、うむ、前向きだな、プルケリア嬢」
「ええ。よく言われますわ」
長兄は戸惑っているが、正直に言えば私も同じだ。プルケリアの切り替えの早さは見事で、落ち込みはするもののうじうじといつまでも引きずらないあたり、いいことだ。
細身の令嬢が奮起したところで、メイドが扉を開けて出ていくとき——遠くから異音が聞こえた。
毎日聴いている音が、滅多に聞かない拍子で叩かれている。
「あら……鐘の音?」
その場にいる全員が耳を澄ませる。
長兄はおもむろに立ち上がって窓へ近づき、外の様子を窺う。私もそばへ行くと、しきりに叩かれる微かな鐘の音と、空へたなびく灰色の煙を確認できた。
それだけで長兄は状況を把握し、私へこう言った。
「火事だな。方角的に王都外周部の建物なら川を挟んでいる、中心部への類焼はないと思うが……念のため、王宮騎士団の詰め所に行ってくる。すぐ戻る」
「ええ、お気をつけて」
長兄は王宮騎士団の指導として呼ばれている身であり、何よりもイヴェルタリーとして王都での災害とあれば駆けつけないわけにはいかない。
素早く出ていく長兄を見送って、私がやってきた執事に情報収集を命じ終えたところ、ようやくプルケリアが声を上げた。
「あの、カルストン伯爵夫人! 私、あなたともっとお話してもよろしいでしょうか!」
突然のことだったが、彼女が一生懸命であることは一目見て分かる。
胸の前で両手を合わせて握り締め、プルケリアは訴える。
「あなたのように、世間を知り聡明な方のお知恵を拝借したいのです。私は自分のことさえ満足に知りませんでした。でも今は、それではいけないと思うのです。だから、お時間があれば、ぜひ」
私を見上げてくるプルケリアの瞳は、夢見る乙女のようにキラキラと輝くものではなくなっている。
プルケリアは、このチャンスを逃すものか、と手を伸ばして足掻く者の目をしていた。
辛辣に言ってしまえば、その訴えはまだまだ青く立場をわきまえない若者の戯言、その目は直面した無力感から逃れたいがための必死さだ。
しかしながら、だ。
この場に長兄がいたら、彼女へどう応じるか。
私としても、プルケリアという令嬢のこの先が少し、気になった。
「いいでしょう。なら、まずはお互いのことを話して、どんな違いがあるかを知ることからね。お兄様が帰ってくるまで、お茶をしながらのんびりとね」
「はい。よろしくお願いしますわ!」
私は甘い選択をしたかもしれない。現実を知らしめることが、貴族令嬢としての彼女のためにならない可能性だってある。
だが、私は断らなかった。
次回は5/9AM05:00です。




