第十話 あなたの手を引き、向かう先
アルバートはまだセダル公爵ではなく、実父のセダル公爵エルリックが隠居あるいは死亡するまで母から譲られたカルストン伯爵やその他の爵位を公式には使うことになっている。
しかし、慣習としてはすでに次期セダル公爵であり、私も次期セダル公爵夫人と看做され、王宮の公的行事ではない社交界ではそのように扱われる。
それゆえに、アルバートはセダル公爵の名代として、舞踏会や晩餐会では『セダル公爵』の名を背負うこともあるのだが——まだ、少々舐められていた。
私が嫁いでまもなく、結婚式よりも先にアレダート公爵家主催の晩餐会へ招かれた。宮殿とさえ呼ばれる屋敷で、舞踏会も兼ねた大規模パーティだ。
燕尾服のアルバートに、シックなベージュの詰襟ドレスの私。その並ぶ姿を見て、晩餐会で暇を持て余している人々の間から聞こえた声は聞き逃さない。
「おい、あれがアルバートと……イヴェルタリーの娘だ」
「本当に結婚するのか」
「婚約破棄に賭けてたんだがなぁ」
そんな声はいつでも聞こえてくる。
それよりも、主催者への挨拶が先だ。アルバートの伯母に当たるアレダート公爵夫人シビルが広間の最奥に座り、招待客と一人一人挨拶を交わしている。
事前に彼女について聞いたことと言えば、アルバートの「伯母上は優しいが策略に長けている……らしい」という頼りない身内評判だけだ。社交界の噂と同じくらい信憑性に欠ける。
ならば、堂々と真正面からぶつかる他ない。
招待客の長蛇の列が動き、ようやく私とアルバートが最前列となって、金椅子に座すアレダート公爵夫人へ最敬礼と膝折礼をしてみせた。
「お招きいただきありがとうございます、伯母上」
「アルバート坊ちゃんが、こんなに立派になって。それに」
「トリッシュでございます、アレダート公爵夫人」
「あら」
じろり、と一瞬品定めする視線が、研ぎ澄まされたナイフのように私へ刺さる。
と思ったら、そのほんの一瞬だけで消え、老婆らしくアレダート公爵夫人は鷹揚に微笑んだ。
「いい子ね。きっと未来のセダル公爵夫人としてふさわしい淑女でしょう」
「恐れ入ります。どうぞ、今後ともご指導ご鞭撻を賜りますよう」
「あの国王夫妻のお気に入りと知って茶化すほど私は間抜けじゃないわ。心配せずに、今日は楽しんでらして」
私は無言で、笑みを見せるだけでその褒めの返答とした。
再度の一礼をもって、私たちはその場から離れる。実の甥のアルバートはともかく、私は十分すぎるほどのアレダート公爵夫人からの最低限の敬意を受け取ったのだから、それでいい。
社交界において重要なのは、敵視されないこと。敬意を払われることはすなわち、警戒されることでもある。誰も彼もを服従させればいいというわけではない世界において、上手く立ち回って長生きすることがどれほど難しいか。
『老人を見たら、古強者と思え』——これは社交界でも戦場でも同じなのだろう。
一方で、そもそも生存戦略の異なる者も確かに存在する。
「おやあ、これはアルバートじゃないか。女の尻に敷かれて、随分と大人しくなったみたいだね」
晩餐会会場である広間への廊下で、声をかけられたアルバートがわずらわしそうに振り返る。
三人の青年貴族、それに同伴の女性たちが、さも面白いおもちゃを見つけたかのような目でアルバートを見て、それから私へ視線を送ってきた。
アルバートと同じ燕尾服を着ていながら、一人は顔中に赤い湿疹を作り、一人はすでに酔い、一人は困った顔をして善人を気取っている。どれも貴族とは思えない、金満さと強欲さに比例する自己管理の必要さを教わってこなかった、と首元の曲がった付け襟やタイが暗に示している。
とはいえ、侮るべきではない。念のため、アルバートへ尋ねる。
「知り合い?」
「大昔に寄宿学校で顔見知りだっただけだ」
その一言で、おおよその関係性は理解できた。少なくともアルバートの友人ではなく、ただのクラスメイトかそのあたりで、貴族として関係を持つべきか否かと問われればせいぜい『顔見知り』止まり。
数少ない公爵、それも嫡男と知り合いであれば——さらに優位に立てれば——あることないこと喋り、目立つことは容易だ。社交界で一目を引くことができれば、多芸多益に繋がる。
そんな野望を抱いてか、会話に混ざろうと、赤い湿疹まみれの口元を開いて青年貴族の一人が喋る。
「君の放蕩遍歴を知るくらいには仲良しだよ。ご婦人、よろしければお話ししましょうか?」
私は周囲へ目を走らせた。助けを求めるためではない、幾人がこの茶番劇に注目しているかを知るためだ。
廊下の滞留はマナー違反だ。すでに後方で眉と声をひそめている紳士淑女がいる。
手早く片付けることこそ、マナーだ。私は、赤い湿疹まみれの青年貴族へ、きっぱりと声を張って、こう告げた。
「あなた、今すぐ病院に行きなさい」
「は?」
「頭もそうだけど、唇の周りにバラ疹がある。それに、手や首筋といった他の皮膚にも見られるわ。梅毒でしょう、早く治療なさい」
梅毒。その嫌悪すべき病の名を廊下中の人々が耳にした途端、空気が一変した。
赤い湿疹の青年貴族は、空気の変化に戸惑っていた。もし己の病について知っていれば、そんな反応はしない。
即座に他の二人の青年貴族が、赤い湿疹の青年貴族を両側から捕まえ、出口へ素早く連れて行く。
「お、おい、何をする! 離せ!」
「いいから、早く連れ出せ! 医者を呼べ!」
乱暴な彼らへ、人々はさっと道を開けた。彼らのためではない、病から遠ざかるため、穢らわしいものから逃げたいがためだ。
蔑む目をした中年の貴婦人が、扇子で口元を覆いながら吐き捨てる。
「ああ、汚い。梅毒ですって」
隣にいた壮年の紳士は、それに同意した。
「どこの安宿の売春婦と遊んだやら。これだから若者は」
「二度と近づかないよう名前を調べておいてちょうだい」
ざわり、ざわりと話は広まり、彼らの名は売れていく。
しかし、二度と私の前に現れないことは確かだから、私が彼らの名を憶えることはなかった。
私はアルバートの手を引き、晩餐会の会場へ歩き出す。
アルバートはぽつりとつぶやく。
「……お前、すごいな」
「このくらい、見れば分かるもの。それより、あとで踊りましょう。ちゃんと練習してきたのよ、私」
すでに、私は晩餐会を通り越して、舞踏会へと意識を向けていた。
一流の料理、一流の卓上、一流のマナー。それを楽しみ、学んだのちは、アルバートの得意とする舞台を披露するだけだ。
社交ダンスが得意でも相手がいなければ始まらないのだから、アルバートは嫌でも私と組むしかない。もっとも、私の目の前で他の女性の手を取る勇気があれば、話は別だが、そうはならなかった。
「ふん、どこが練習したんだ。下手くそなステップのままだな」
「あなたが下手になったのではなくて? もっとちゃんとリードなさい」
「はいはい、おまかせを」
優雅な、そして贅沢な夜は更けていく。
いかに歯車であろうとも、メッキを施し、靭くしなやかであればあるほど、長持ちはする。たかが歯車、されど歯車だ。
私たちは、欠けてはならない歯車でありつづけることが求められていた。




