第九話 栄誉ある別れ
結婚が決まったのなら、やることはいくらでもある。
結婚式の準備だけでなく、両家の生活そのものが変わり、家族の数も顔ぶれも変わるのだから当然だ。嫁入りのための新調する家具や既婚女性としての服、アクセサリー、化粧品、使用人も新しく多数雇う必要が出てくる。
となると、これからは多忙極まるため、私は王妃の側仕えの職を正式に辞すことにした。
王妃からは引き留められなかった。それもそのはずで、結婚する貴族の令嬢に仕事を続けろと無理強いする理由がないからだ。
王妃の側仕えは単なる世話係ではなく、政治的な意味も持つ。十二歳から六年余りも勤め上げたばかりか、セダル公爵夫人になる私が王妃の側仕えを続けては、『贔屓の引き倒し』となりかねないのだ。
姓が変わろうと、王の忠臣たるイヴェルタリーの娘ならば、そのような無様かつ臣下の風上にも置けない真似をしてはならない。
私は辞職を申し出たその日のうちに、速やかに王宮の居室の荷物を引き払い、王都のイヴェルタリーの屋敷に戻ることにした。
王宮のエントランスまで見送られ、いつになく穏やかな王妃が寂しげな顔をしていることに胸が傷む。
「寂しくなるわ。トリッシュ、いつでもいらっしゃい。お茶をしにくるだけでもいいのよ」
「ありがとうございます、マルタ様。メリザンド様も、アミス様も、それに私にたくさんのことを教えてくださった先輩たちも」
見送りには王妃や懇意にしていたメイドたちの他に、どこからか聞きつけた第一王女メリザンド、第二王女アミスまで駆けつけ、大騒ぎとなってしまった。
「ねえ、本当にアルバートと結婚するの? 放蕩息子のあのアルバートよ? 婚約なんて破棄しちゃいなさい、お父様に言ってあげるから」
「そうよ、お姉様に賛成だわ! お父様なら、王として婚約を無効化させられるわ!」
「あなたたち、いい加減になさいな。トリッシュが決めたことですよ」
「だって」
王妃のたしなめにも、両王女は引き下がらない。
「アルバートなんかにトリッシュを渡すなんて、何だかとっても嫌! 私のもう一人の妹なのに!」
「私だって、トリッシュをお嫁に行かせたくないわ! 六年も一緒にいたのに」
だんだんと涙目になってきた両王女だが、二人ともとっくに成人して二十歳を超えている。普段は凛とした王女たちも、別れは堪えるようだ。
私とて、長く誼を深めた両王女、それに心を尽くしてくれた王妃と離れることはつらくもある。しかし、それは義務であり、私のすべきことをしている道筋での出来事であり、そこに親しく感情を伴うのは——その場の居心地がよかった証拠だ。
人間は居心地のいいところに長居したがるものだ。だが、私はイヴェルタリー伯爵家の令嬢であり、セダル公爵家に嫁ぐ身であり、将来は公爵夫人となるだろう。
その中で、一つでも居心地のよかったところの思い出が残るのは、とても幸せなことなのだと知っている。不幸、不遇など貴族にとって嘆く理由にはならない。その場にいること、義務を果たすこと、それが与えられた使命なのだから。
だから、私は沸き立つ感情の数々を胸の奥底に沈め、にっこりと淑女らしく微笑む。
「あれでも、いいところはあるのです。ダンスのリードだけでなく、最近は身の丈を知るようになりましたから」
私としては将来の夫について一応の擁護をしたつもりだったが、王妃にはクスッと笑われてしまった。
「ふふっ、次期公爵にそんなことを言えるなんて、やっぱりトリッシュね」
「ドニーもいい加減諦めればいいのにね。トリッシュに勝つなんてできっこないんだから」
「未だに根に持っては返り討ち、なんて格好悪いわ。本当、お父様だけじゃなくてイヴェルタリーのご当主にもしっかり怒ってもらわないと」
これには周囲から失笑が湧き、何せ王妃や両王女たちが愉快そうにしているものだから、メイドたちの不敬は見逃された。
しかしだ、現状、第一王子ドンナーことドニー王子は道化になるか王位継承者になるかの瀬戸際にある。この場での失笑については、憶測の材料を生み出してしまうため、決して外には漏らしてはならなかった。
やがて、第二王子ロウヴァンを連れたヴァルタル王までもが駆けつけてきた。
「おお、間に合ったか。トリッシュ、これを持っていきなさい」
「陛下」
白髪の目立つようになってきたヴァルタル王は、ベルベット張りの貴重品箱を一つ、私へ押しつけるように渡してきた。
受け取らないわけにもいかず、私は片膝を軽く曲げて、略式の膝折礼で対応しながらしっかりと箱を両手で受け取った。
ヴァルタル王は満足げに、箱の中身を告げる。
「いずれは、お前はセダル公爵夫人となるだろう。だが、華美なものを好まず倹約ばかりでは、公爵夫人として下に示しがつかぬ。我が王家に伝わる装飾品の中でも、特に目立つ『金と真珠の胸飾り』だ」
まあ、と王妃はヴァルタル王の厚意の表し方に嬉しそうにしていた。
王直々に、王家に伝わる品を下賜する。それは王家に対する働きを認められた者にしか許されない栄誉だ。
私は箱を抱きしめて、もう一度深々と膝折礼を示す。
私の六年の働きは、今、名実ともに報われた。
「恐縮です、ミロード。我が家の家宝にいたしましょう」
こうして、私は長く暮らした王宮から、完全に退去することとなった。
セダル公爵家への嫁入りに向けて、もっとも素晴らしい持参品となる『金と真珠の胸飾り』は——アルバートも腰を抜かして驚くことだろう。私は見せびらかすのを楽しみに、我が家へ向かう馬車に乗り込んだ。




