朝陽と家族
「名前で、呼ばないで」
彼の手がビリッとはじかれたように止まり、その指をグッと握りしめた。
「なんで、今までみたいに、姉さんって、呼んでくれなくなったの?」
そして、視界から、ぶらんと手が消えた。
一歩、翔が私に近づいてくる気配を感じ、私は首を横に振りながら腕を後ろにまわし、後ずさる。
「姉さんて、呼んで」
お願いだから。
だって、家族だから、ずっと、そう呼んでほしい。でないと、
「私、家族いなくなっちゃう」
ぽたっと、足元に水滴が落ちた。
ぽとぽとと続けて何粒も落ちて床を濡らす。
「お願い、だから」
にじんだ視界は何も見えない。
ただ、ぼんやりと床をこれ以上、濡らさないようにしなきゃと両手で瞳を押さえた。
「もう、無理だよ」
翔が私の手を包み込むように手を重ねた。
「いつか、名前で呼びたいって。できたら、気づかれないように、自然に」
手が暖かい。
カフェで握った指は冷たかったことをなぜか思い出す。
「緊張してた、ものすごく。タイミングずっと待ってて」
あのとき、急に大きくなったと思ったのは、初めて名前で呼ばれたからだ。
何かが変わったと感じたけど、それではなく彼の手の大きさだと思ってた。
「気づいてないのか、もしかしたら、受け入れてくれたかなって思ってたんだけど」
いやいやと首を振る。
叔母さんも近くには、居るし、気にかけてくれるから、生活の心配はない。
けれど、ひとり暮らし、ずっと、ずっと、本当は寂しかった、怖かった。
でも、お母さんと呼べる人、姉さんと呼んでくれる翔がいるそれだけで、家族がいて、ひとりじゃないって思えて耐えれた。
たとえ、離ればなれで、遠くに暮らしてても。
お母さんがパートナーと結婚したら、お父さんとの繋がりがなくなる。
お母さんと呼べなくなる。
翔から、姉さんって、呼んでもらえなくなる。
離れたまま、関係が終わる。
私だけ置いてきぼり、だ。
でも、一緒に住まなくても、側にいなくても、姉さんと呼んでそう思ってくれる翔がいれば、血のつながりはなくても、その存在だけで家族がいるって思える。
「翔に彼女ができて、結婚したら。それまで、翔だけでも家族って思わせて、欲しいの」
否定されるのが怖くて、ギュッと体を縮ませ、いつか来るかもしれないと思っていた、このことに対して、ずっと考えていたことを話す。
「ごめん、ね。ごめんなさい、違う。結婚、私に家族と呼べる人ができるまでで。ううん、せめて、そういうひとと出会うまで……」
だから、お願い。
そんなに難しいことじゃない。
お母さんが結婚したら、そもそも、もうこうして会うことがなくなる。
私だけの気持ちの問題だから。
「いつか、誰かと家族になれれば、もう絶対、こんなこと言わないし。ちゃんと離れるから。それまで、でいいの。お願い」
翔は、すうっと息を吸って、何かをこらえるように、ゆっくりと口から吐きだした。
「前から、考えてたみたいに話すね。だいたいさ、俺の結婚とかまで、なに言い出してんの」
ビクッと震えると強い力で顔から手が離された。
手を戻そうとしても、痛いくらいに握りしめられた手はもう戻せない。
うつむいたままの瞳から落ちた涙がまた床を濡らす。




