⑥
その気配は、恋とカティが訪れた時からずっと感じているものだった。
零余たちが誰の時間を停めるかで騒がしく問答をしている中、椿だけは常にその気配に意識を傾け、その動きを感覚的に追い続けていた。この学生寮を中心にして、エントラス前の道路に三つ、学生寮の左右を覆うように二つ。この五つは、数時間以上もほとんど動きを見せていない。ただでさえ様々な人間の魔力を探知し続けている分、動きが無いと言う事実の異様さが如実に際立っているのだ。一方で学生寮の中、特に部屋の中にいる人間の魔力は動く者、動かない者の区別がつき難く、判断が難しくもある。それでも彼女たちのいる部屋に近づいてくれば、その気配をより明確に察知することもできる。
今、その気配探知は、ここへ近づく者の存在を伝えていた。
(一人……いえ、エレベーターでもう一人屋上に向かっている人がいますね。さっきまで同じ動きをしていたのに途中で分かれました。その一方がこちらに近づいてきていると言う事実からみて、こちらも警戒するべきでしょうか)
椿は、この事実をすぐにでも零余に伝えようとして、その動きを止める。目の前では、何故か零余が同じく動きを停めていた。目を開いたまま立ち尽くし、身動ぎ一つしない。その異様な様子に椿は慌て、次いでその隣に立つリーシャが持つ懐中時計のような物体を見て、ようやく理解する。
あれが“時神の裁可”。時を停めるハイリヒトゥム。そこからは、カティの“爆轟の奏歌”と同様、肌で感じられる威圧的な何かがある。シュトラーフェとは決定的に違うと断ぜざるを得ない何かを、椿の鋭敏な感覚が鋭く察知していた。
「って、皆さん。兄様を停めてしまったんですか?」
“時神の裁可”に圧倒されているのも束の間、椿は現状を思い出し、この場にいる全員に問いかける。確か零余と恋は誰の時を停めるかで睨みあっていたはずだが、いつの間にかリーシャが零余の時を停めてしまっていた。
そのリーシャは、懐中時計にちらりと視線を落とし、何かを確認した後、いきなり零余に抱きついた。
「はふぅ」
そのまま、まるで湯船に浸かるかのように吐息を漏らす。その様を見て、椿の表情が凍りついた。
「おう、椿。どうせレイは良からぬことか……んがえ、て……」
振り返った恋が椿の表情を見て、サッと目を逸らす。もはや関わりたくないと言った風だが、椿の目はすでに恋を捉えていなかった。その目はただ一点、兄にぴったりと張り付いて離れない少女に注がれている。
そんな背後にある視線にはまるで気づかず、リーシャの様子をカティは微笑ましげに見守っていた。零余の話を聞いた時は、そのあまりの変態ぶりに失望の色を隠せなかった彼女だが、リーシャが零余を慕う分には別に構わないと思っている。むしろ、その安堵し切ったあどけない表情が見た目で分かる年齢よりも一層幼く見え、その容姿も相まって純粋に可愛らしいと思ってしまった。
(いいなぁ、柊くん)
すっかり懐かれてしまった零余を羨ましく思いつつ、彼女はふと気づく。今、零余の時は停まっているのだ。何をしても認識できないと言うことは、何をしても良いと言うことである。その邪な考えに気づき、カティは慌てて首を横に振る。そんなことは考えては駄目だと自分に言い聞かせながら、ふらりと身体は立ち上がり、そっと零余の手に触れてみた。その身体はしっかりと熱を持って熱く、確かに生きていることが分かる。
本当に零余の時は停まっているのだろうか、と疑問に思い、カティはリーシャに尋ねた。
「ねぇ、リーシャ。人の時を停める、ってどういう状態になるの?」
その問いに、リーシャは零余の身体に顔を埋めたまま首の向きを変え、どこか茹だったような声を返した。
「時を停めるとぉ、外部からの一切の干渉を受け付けなくなるんですぅ。たとえばぁ、この状態のお兄さんに傷をつけることは一切、不可能ですぅ」
「へぇ……あ、確かに指の関節が全然曲がらない」
なるほど、そんなものか、と納得していると、顔を背けていた恋がチッと舌打ちした。彼女には、ある考えがあったのだ。実に古典的ではあるものの、世間一般に定番される悪戯の一つ。落書きである。特に油性マジックで顔面に描けば、仲の良かった親友同士も殴りあいに発展するそれを敢行しようとすでにペンを用意していたのだが、停まっている人間に干渉できないのであればどうにもならない。おそらく、ペンで字を書いても零余の肌にインクが乗ることは無いのだろう。
(くっそぉ、何か他に……っとと、椿がこえぇから気づかれないようにしないとな)
そんな風にして恋すらも恐れさせる椿と言えば、目の前の光景にぐるぐると色々な思考を展開していた。その中心にあるのは、もちろんリーシャである。出会った当初から零余に抱きつく癖の多かったこの少女は、時間が経つに連れて輪をかけてその回数が増し、遠慮が無くなってきている。零余などは、それを打ち解けたと捉えているようだが、椿は違っていた。彼女の両の瞳は、リーシャのその揺れ動く感情の波を正確に捉えていた。
(この子は……小悪魔です……)
それもおそらく、無自覚な天性のそれである。好いた男に無意識に擦り寄り、彼女個人はその人の傍にあることで満足し、安堵する。男は可愛らしい女性にスキンシップで触れられて鼻の下を伸ばし、女は自分を守ってくれる男性に力強く抱かれることで安全を得る。それを高度なレベルでリーシャは実践しているのだ。その中でも性質が悪い、無自覚、と言うオプションまで付けて。
あれがリーシャの素。彼女本来の姿なのだろう。その純心無垢さは、まさに子供だ。穢れを知らない子供が大人の関心を得るのとと同じ。子供は皆、小さな子悪魔なのである。だが、リーシャは子供ではない。十三、四ほどのそろそろ大人にさしかかろうと言う年齢だ。それであの振る舞いであると言うことは、椿もまた、少しだけリーシャの将来が心配になるのだった。
(しかし今は……今は、それよりも……!)
重要なことはただ一つ。そのリーシャが、零余に無遠慮に抱きついていると言う事実だ。彼女の過去を思えば、それを咎める気にはなれない。だが、椿個人の感情云々で言えば、その気安さが多少、癇に障るのも確かだ。何よりリーシャは、零余のことを「お兄さん」と呼んでいた。この呼び方もまた、椿のポジションを奪いかねないのである。
(だ、駄目です、私! 妹力で負けてしまっては駄目です!)
思えば最近、椿は妹と言うポジションよりは、零余の身の回りの世話係になっていたような気がする。炊事洗濯はもちろん、家事は全て彼女がこなしているのだ。しかし、妹らしいこととそれは言えるだろうか。妹らしいことの定義が椿にはいまいち分からないが、何かその場所から離れている気がする。
そう、例えばリーシャの今日の振る舞いだ。椿はそれを思い返し、打ちのめされた。
あの不安そうに揺れる瞳。縋るような言葉。守ってあげたいと思ってしまうほどの雰囲気は、まさしく男性にとって女性の――妹の理想像ではないだろうか。
椿は気づく。自分に足りなかったものが何か、それをリーシャから学んだ。
(妹力の根幹は……守ってあげたくなるオーラ!!)
一週間前のあの日、零余は椿のために命まで懸けてくれた。あの時、確かに何より頼もしい兄としてそこに在ったのだ。あれこそ、妹力が成せる業だろう。兄の真価は、妹の優劣で決まる。優秀過ぎる妹とは、あるいは妹として底辺にあるのかもしれない。
(な、なるほど! 私は気づきました、兄様! それが兄様の求める妹なのですねっ!?)
ここで一人、思考を暴走させた少女がいることに気づいているのは、おそらくは恋を除いていない。
そんな椿の少し前に立つのがアルだった。彼女は、停まってしまった零余と未だ意識の在る己を比べ、首を右に傾げる。それから何かを確かめるように腕をグーパーと開き、ピョンピョンと飛び跳ね、今度は首を左に傾けた。
(どうして……わたしは意識があるのでしょうか?)
零余が動きを停めているにもかかわらず、アルの思考は常の通りであり、身体も動く。であれば、零余の魔力から生み出された分身とも言える自分が動いていることは不思議でならなかった。とは言え、それは考えたとして答えの出るものではなく、次第にアルは考えることを止め、目の前で動かない零余に目を向ける。
それを見て、むくむくと湧き出す感情があった。悪戯心、とは少し違うのかもしれない。ただ、零余は時を停められる寸前、ある邪な願いを持っていた。その段階ではアルと意識が共有していたため、その思考の断片がアルに流れ込んだのだ。零余が時を停められた相手に仕掛けようとしていた悪戯の発想がアルにも流れ込み、それはおかしな方向に転がって変質した挙句、彼女はその意識に頓着せずにまるで自分で決めたかのように迷い無く動き出す。
この時点ですでに、この場にいる五人は、時を停めた少年に同時に近づいていた。最も近くにいたのがリーシャとカティ、少し離れて恋とアル、一番遠くにいたのが椿だ。そんな中、ほとんど同時にアルと椿が動き出し、先に近づいてきたアルに気づいたカティが少しだけ場所を開ける。そこへアルが迷い無く足を進め、遅れて椿も零余に近づいた瞬間、それは起こった。
あろうことか、アルが零余のズボンのベルトを瞬く間に取り払い、一気にズボンとパンツを下ろしたのだ。
そこに一拍の間を置いて、上がったのは黄色い悲鳴。飛びのくようにリーシャが零余から距離を取って頬を真っ赤にし、アルの一連の行動を見守っていたカティが零余の手をパッと離し、思わずその頬を平手打ちする。恋は目の前に広がったそれに焦って咄嗟に目を逸らし、ちょうどアルが離れたところでその一物を目にした椿は、声にならない悲鳴を上げた。
それとほぼ同時、リーシャの手にしていた“時神の裁可”の針が一周し、時の停滞が終わる。彼女の持つ懐中時計は、針を一つしか持たず、その針の動く一周こそが時を停めていられる時間に他ならない。
動き出した時の中で零余は切り替わった光景に目を見開き、それからアルの放った一言で自分の惨状に気づき、
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
と女の子のような悲鳴を上げた。




