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風呂から上がったリーシャは、椿が買ってきた衣服に身を包み、その姿を現した。身に纏っているのは彼女が着ていたようなボロボロの物とは違う、新品らしく綺麗な淡いベージュ色を持つ、軽く花柄をアクセントに加えたワンピースであり、その上から白のブルゾンを纏っている。春から夏の変わり目を感じさせるその出で立ちは椿らしい間違いのないコーディネートであり、その肌の色と対照的でありながら、髪と瞳の色に映える可愛らしい仕上がりとなっていた。
リーシャは自分の着ている服に目を輝かせ、まるで犬が尻尾を追いかけるかのように後ろの様子を確認している。それから満足がいったのか、ぱぁぁ、と愛らしく目を輝かせていた。喜んでくれたようで、椿も得意気である。
こう言うとき、実際のところ、どうなのだろう。可愛いよ、とか一声かければいいのだろうか。いやいや、さっき椿さんに謝ったところだ。安易にリーシャを褒めたりなんかしたら、また逆鱗に触れかねない。
「兄様、リーシャさんを見て何か無いんですか?」
「え、あ、ああ。よく似合ってる。可愛いよ」
椿に促され、俺は咄嗟にそう口に出していた。すると、リーシャは嬉しそうに微笑する。まるで主人に尻尾を振る子犬のようなその素直すぎる感情表現に、褒めた俺の方まで照れてしまいそうだ。
こう言うのも案外良いな。褒めると喜んでもらえるなら、どんどん褒めたくなる。
そんな風に俺が実感していると、椿が俺の傍まで近づき、耳元でそっと囁いた。
「へぇー……ちなみに裸とどっちが可愛いかったんですか?」
「ぶふっ!?」
「あれ、兄様? どうしたんですか、突然」
すでに笑顔を浮かべ、俺から離れている我が妹様。黒い、黒いよ。
椿から放たれた警告にも似た何かをしかと胸に刻み込み、これからは不用意な言動と行動は慎もうと固く誓っていると、不意にインターホンが鳴った。その予期せぬ軽い音にリーシャは大げさなほど肩を震わせ、怯えるように俺を見る。その瞳に何かを感じ、俺はリーシャに部屋の奥へいるように促した。しかし、リーシャは俺の腕を取って離さない。奥へ行くように優しく手で示しても、首をふるふると振って応じない。どうしようかと迷っていると、椿が何も言わずに玄関の方へ行ってしまった。自分が対応する、と言うことだろう。確かに椿なら防御に特化したシュトラーフェ、ミュールがある。
それにしても、と俺の手をぎゅっと握り締めるリーシャを見る。その震えようは、相当なものだ。折角、少しずつ活気を取り戻し始めていたのに、誰かが来ただけでこれだ。よほど酷い目に遭ったんだろう。
「リーシャ、大丈夫だから」
「……はい」
応じる声の弱々しさに己の不甲斐なさを痛感しながら、俺は誰とも知れない来訪者に苛立ちを覚える。まだ九時を回ったばかりの時間帯。平日の朝っぱらからこんな学生寮の一室に何の用だ。普通の学生なら授業に出ているはずだし、最悪、戦いも覚悟しなければならないかもしれない。
俺の隣で控えているアルに目をやる。あの日以来、ずっと彼女はこうして現れ続けている。そのために分かったこともある。力は大幅に減少しているが、今のアルは魔術を使うことができるのだ。もちろん、自身の魔力量に応じた簡単なものだが、俺のハイリヒトゥムと合わせれば、相手を撹乱する方法もある。
来るなら来い。その思いで来訪者を待ち構えていると、玄関の方から椿の大声と、それを無視してズカズカと乗り込んでくる足音が聞こえてきた。足音は徐々にこのリビングにまで近づき、無用心に扉を開く。その瞬間、俺はアルに命じた。
「アル、フライパンを当てろ!」
「はい、マスター」
バン、と激しい音を立ててキッチンの方からフライパンが飛び出し、それがリビングに一歩踏み出した来訪者の頭上目掛けて突撃した。『空』の特性による風を操っての物体移動。基礎的な魔術であり、今のアルの魔力量でも十分に行える術だ。
フライパンを受け、思いのほか長身の来訪者が体勢を崩す。だが、駄目だ。今のアルの力では、フライパンを運ぶことはできても、攻撃となり得るほどの威力を実現できていない。なら、ここは俺がやるしかない。
リーシャの手を振り払い、俺は地を蹴り、身体を空中に投げ出そうとする。見よう見まね、捨て身のそれは、両足を横に突き出したドロップキック。狙いは、その長身の腹部だ。
「や、止めてくれ、零余!」
その時、俺はその長身が誰なのか気づいた。フライパンに殴られて情けなく涙目になったその顔も、鬱陶しいぐらいに整ったその顔も、とにかく見ているとイラっとくるその顔も、見覚えがあるものだった。
「ドロップキック!」
「今気づいただろうっ!?」
俺のドロップキックが炸裂し、長身の男――天上寺雄輝の身体を吹っ飛ばした。
ふん、悪は滅んだ。俺の妹を泣かせる原因を作った罪は重い。
廊下に倒れ、白目を向いている雄輝を避けるようにして椿が戻ってくる。その表情は、どこか申し訳なさそうだ。
「ごめんなさい、兄様。この人、止めようとしたんですけど……」
「いや、仕方ない。こいつは礼儀とか遠慮とかそう言った常識を知らない馬鹿だからな」
そう、馬鹿なのだ。目の前で倒れ、伸びているこの男は、正真正銘の馬鹿なのである。色々と立て込んでてピリピリしている俺たちのところへ勝手に来てしまうぐらい馬鹿なのである。つまりこれは、俺は悪くない。こいつが馬鹿だったことが全ての元凶だ。
「ちょっとこの馬鹿、外に放り出してくる」
「あ、それなら私の魔術の方が早いと思います。この人、無駄に大きいですから」
「そういやそうだった。じゃあ、頼む」
「――頼むじゃないだろう!?」
ちっ、起きやがったかこの馬鹿。
跳ねるように飛び起き、何故か体を開いて構えを取る雄輝。まるで俺がこいつに何かをしたと言わんばかりの態度だ。
「蹴っただろう! さっき! 僕を! 済ました顔をするな!!」
「なんだ、そんなものを警戒してたのか。安心しろ、さすがにもう蹴らないって」
「ほ、本当か? なら良いけど」
「そうそう。それが分かったら後ろ向いて」
「ああ」
「廊下進んで」
「ふむ」
「靴履いてその玄関の敷居を跨でから、ばいばい」
「おお、ばいばい――って違うだろう! これではただ殴られに来ただけ、っておい、ホントにしめ、閉めるなぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「こ、の……馬鹿、力ッ! 手を、退けろ!」
くそ、この筋肉馬鹿め。俺がドアにかけた力をあっさりと振り解いて中に入ってきやがった。あと少しで騙せそうだったのに。馬鹿の癖に俺の天才的作戦に気づきやがった。
「はぁはぁはぁ……れ、零余、よく聞いてくれ! 今は遊んでいる場合じゃないんだ」
「お、俺が、遊んでいるだと? 面倒事運んでくる疫病神を追い出してるだけだ!」
「そう言う事はっきりと言わないでくれる!?」
大声で言い合い、仕方なしに雄輝をリビングに連れて行くことに。こうなってしまえばこいつは頑なにこの家を出て行かないだろうし、さすがに知り合いと命を懸けたバトルにまで発展したくは無い。さらに言えば、単純な腕力勝負なら俺に勝ち目もないため、ここは知略を生かしてまたこいつを追い出すことにしよう。
そう考えながらリビングに向かうと、誰かが俺の胸に飛び込んでくる。この目に眩しい、少しだけ赤みがかった白い髪は、リーシャで間違いない。
「お兄さん……っ!」
声に悲壮感を滲ませ、ぎゅっと強くリーシャが俺の身体にしがみつく。俺が無理に手を払ったことでかなり不安にさせてしまったらしい。その身体が寒中で水を浴びたように震えている。
そんな中、突き刺さる三つの視線。その中でもとりわけリスキーな妹の方はなるべく見ないようにして、かと言って無情の瞳でこちらを見るアルの方も何だか見ていられず、結論として見たくもない馬鹿の方に顔を向ける。さすが馬鹿だ。何を勘違いしたのか微笑ましそうに見てやがる。
「リーシャ、落ち着いて。ほら、大丈夫。な?」
まさかこの歳の子相手に幼子に接するような対応を取ることになろうとは。だが、リーシャの怯え方は本物だ。手を伸ばして肩に触れ、ゆっくりと引き剥がすと、目に少しだけ涙を滲ませているのが見える。
まずいな、本格的に懐かれたら問題だ。話次第では、俺以外の誰かにこの子を任せる事態にもなり得るのだ。その時になって、俺がこの子にとって離れ難い存在になるわけにはいかない。しかし、どうしてこの子はこんなにも俺を慕い、信頼を寄せているのだろう。最初に助けを求められたこととも何か関係があるのだろうか。
「リーシャ……リーシャ・ランゲルか。やはり、君の下にいたのか、零余」
「は? おい、待て。なんでお前がリーシャを知ってる?」
この場にあるまじき男から発せられた、この場において最も重要な立ち位置にある少女の名前が挙げられたことに俺は驚く。それもただ俺の言葉から名前を知ったのではなく、雄輝はフルネームでリーシャの名を呼んだ。さらには、「やはり」の一言である。
その一言を聞くと同時、俺の思考が一気に回りだす。雄輝の姿から情報を探し、まず気づいたことが一つ。フォルセティの学生である雄輝だが、着ているのは制服ではなく私服だ。学校に来たのではなく、俺のところへ直接来たという証左だろう。服そのものにはこれと言って目立つところはなく、表情や身体にも違和感は無い。視覚で得られる情報におかしなところはない反面、同時にそれ以外の言動と行動で分かることもある。今、雄輝は一度噛み締めるようにリーシャの名前を呟いてから、フルネームで名前を呼んだ。しかし、俺に最初にリーシャが抱きついてきた時、リビングに入った時にもリーシャの姿を捉えているはずだが、その時これと言った反応は示さなかった。この点から、雄輝がリーシャの容姿を知らなかったと言う予測が立つ。しかし、こいつはリーシャ・ランゲルと言う名前を知っており、それが俺のところへ来ることも知っていた。
結論、雄輝はリーシャを直接知る立場になく、誰かを介して彼女の情報を知った。だから容姿は知らずとも名前を知り、俺のところへ来ることも分かっていた。
そう言えば、さっきも言っていたな。今は遊んでいる場合じゃない、と。
「その子について話をしに来た。零余、気をつけてくれ。その子は、狙われている」
雄輝は、その時ばかりはさすがに必死になって真剣な表情を浮かべ、作ったような重々しい声でそう告げた。




