⑦
契里直哉を除いた四人の失踪者を抱え、定量オーバーギリギリのエスカレータに飛び乗り、椿たちはようやく地上に辿り着く。途中、東堂の仲間だった如月や契里直哉に出会わなかったのは行幸と言っていいだろう。もし戦うことになれば、余計な時間を食ったことは間違いない。彼らは、早々にここを脱出したのだろうか。そんな疑問が四人の頭を掠めるが、誰もそのことを気にすることはなかった。それよりも今、彼らの目には常軌を逸した光景が映っている。
「な、に……これ?」
光の奔流が地下からコロッセオの闘技場をぶち抜いて立ち昇り、それは空へと吸い込まれるようにして消えていく。莫大な威力は凄まじい余波でその場にいた作業員全員を闘技場の端まで押しのけ、続いて地面を揺らす大震動にまともに立っていることも出来ず、足を崩してその場に倒れこむ。やがて震動が収まるころになって、彼らはさらに常識外の光景を見た。
開いた大穴から、二人の人間が尋常じゃない魔力を放って飛び出してきたのだ。片方は煙の上に立つという異様な出で立ちであり、もう一方はその場に不似合いな幼い少女を連れている。
零余と東堂。地下で激闘を繰り広げていた開闢域の超人たちは、今、その戦場をこの血と狂騒で彩られるコロッセオに移し、その互いの異なる魔力で夜闇を照らしている。だが、その結末は予想に反してすぐに訪れた。東堂がコロッセオに放ったポシュシオンから修復作業に出ていた作業員たちを救うために出来てしまった隙を狙われ、零余の身体がその煙の中に取り込まれてしまったのだ。
「そんな……兄様が……っ!?」
「待て、椿! お前が行ってどうする!」
兄の窮地に駆けつけようとする椿を制止しながら、恋はその絶望的に状況にどう対処すればいいのか分からずにいた。
地下での東堂との戦い。彼女があの場所へ辿り着いた時には、すでに開闢域に至った東堂が椿たちを打ち倒した後だった。その東堂へ単騎で挑んだ恋もまた、一撃も与えられずに叩きのめされた。力や技でどうこうなるような相手ではない。そもそもの力の総量が違い過ぎる。応身であるポシュシオンもそうだが、東堂自身もまた、並のクラティアを遥かに上回る魔力を放っているのだ。あれでは、仮にシュトラーフェで一撃を加えたとして有効打になり得るかどうか。だからこそ、口惜しい思いをしながらも零余に全てを託し、邪魔にならないようにあの場を離れたのだ。
(くそ……レイなら何とかなると思ったが……半端ねぇぞ、あの野郎)
単純な力の差であれば、同じ開闢域にあるもの同士、互角と言ったところかもしれない。だが、零余にあって東堂に無い絶対的な差がある。それは超越者としての自覚、あるいは人間らしさ、常識的見解と言う一般的な概念。例えるなら、先ほど、零余がしようとしたことは、人同士の喧嘩に巻き込まれそうになった蟻、あるいはそれに準ずる生物か、草花を守ろうとしたようなものだ。ただの喧嘩でそんなことをすれば奇異な奴だと思われるのと同じで、開闢域にある者がその力に巻き込まれかねない有象無象を気にしている時点で間違いなのだ。
兵器を扱う者に良識など無用である。その事実を理解しなければ、振るう力は大いに増減し、大きな隙を作りかねない。
だが、それはあくまでも単純な図式に置き換えた場合の話だ。昨日まで人間だった者に対し、突然神の視点を持てと言っても不可能であり、であるならば、開闢域に到達して数刻と経たない東堂が平然と無関係な他者を巻き込もうとしたその姿は、異常と言う他無い。他人の命を露ほども歯牙にかけず、囮のように使うその精神性。下種、人非人などと揶揄してしまえるその心意気は、しかし今この場においては絶対的な力として東堂に味方している。
(隙がねぇ……。単純な力で敵わない相手は、搦め手で攻めるっつーのが一番なんだが……あいつにそんなもんは通用しねーだろうな)
ゆえに東堂は強い。単純な力だけでなく、その精神もまた、生まれ持った段階で神に等しいものがある。もちろん、あんなものを神と評することは一部の宗教関係者を酷く怒らせることになるのだろうが、そう思えるほどに目の前の存在は人間の枠から外れてしまっている。
そんな相手に椿が挑んだところでどうにもならない。椿だけでなく、カティやエドガーも同じだ。恋が一矢も報いれなかった相手に、ただの学園生である三人に何が出来るわけでもない。エドガーだけはグラディアートルと言ういささか力ある立場にあるが、それも同じこと。所詮、狭い世界で受けた評価に過ぎない。そんなものが通用するほど、彼ら魔術の最高の頂は低くはない。
(だが……このまま何もしなきゃやられるのはアタシたちだ。いや、アタシたちだけじゃねぇ。最悪、天魔事件と同じ、軍まで出張ってくる事態になりかねねぇ)
そうなれば、取り込まれた零余になど構わず、多くのクラティアが東堂を殺すべく動き出すだろう。そうしてまた、数え切れないほどの人間が死ぬ。それだけではなく、このフォルセティに向けてあれが放たれる事態にも成りかねない。
膨大な光の波。世界を侵食する悪魔の砲火。
(あんなもの……使わせるわけにはいかねぇ。なら、アタシがやるしかない……)
しかし、意思とは正反対に何一つ考えが浮かばない。あれほどの力を前にして、どう立ち向かうべきかが分からなかった。
そんな恋の迷いに気づいたのだろう。掴まれた手を振り払い、椿が零余の下へ向かおうとする。だが、またもその足は止められた。一人の少女が椿の前に現れたせいで、前に進めなくなったのだ。
それは、椿も何度か見たことのある少女だった。椿とは特別の交流はそれほどだが、零余と仲良くしている先輩だ。治療魔術に長け、コロッセオの医療班も担当している保険委員の少女である。
「先輩……?」
「少し落ち着いて。だいじょーぶ、ひーらぎはまだいける」
「いけるって、何を根拠にそんなことを言ってるんですか!?」
「根拠はある。ちょっと失礼」
「ひゃ!? ちょ、どこ触って……!」
何の前触れも無く先輩は椿の身体を弄り始める。その慣れた手付きは、治療を生業とする者ならではのものがある。何かを探るように身体中を指が這い回り、思わず椿が艶のある声を出してしまうのも構わずにしばらくそれを続けると、ようやくお目当ての物もが見つかったのか、先輩はそれを取り出した。ちょうど椿の学生服のポケットに仕舞われていたそれは、黒いボタン状の何か。先輩から零余へ渡り、零余から椿に渡った末にまた先輩の下へと戻った物だ。
「あった。使い方言う前に寝ちゃったからアレだったけど、ちゃんと魔力も込めてるみたい」
「そ、それ、兄様に渡された……術具、なんですか?」
「そう。全員で魔力を込めてみて。聞こえてくるから」
そう言うと、先輩は全員が触れるようにその術具を掌に乗せ、差し出した。
四人は目を見合わせ、それから互いに頷き合うと、先輩の言うとおりに順番に術具に魔力を込めていく。それぞれが固有の光を持つ魔力を込めるが、特に具体的な変化は見られない。黒いボタンは何の反応も示さず、しかしそれは確かに聞こえてきた。
耳を打つものではない。少なくとも、それを一番最初に聞いた椿の感覚は、普段から聞いている声や物音とは違うものだった。まるで脳に直接届くように、それは聞こえてくる。だが、それを聞き間違えることなど無い。仮に同じ音色を持っていなくとも、その声を椿が聞き前違えることは無かった。
『くそ、ミュールで何とか耐えてるが……この圧力……ッ! けど、あいつが俺のことに気づいていないのが幸いだ……。何とかしてこれを――』
「兄様!? 兄様なのですか!?」
『は? 頭に直接……ポシュシオンの能力か? いや、だが』
「ひーらぎ、聞こえる?」
『先輩? そうか……先輩の渡してくれたアレの力か。口頭によらない情報の伝達――思考の共有、いや少し違う。俺の思考が術具を通して現れてるのか? なるほど、あの術具はスピーカーとマイクの役割を果たすってわけか。となると……そうか、あの時俺が偶々込めた魔力が機能したわけか。あの時は何も無いと思ってたが、他人に渡して初めて意味があったんだな』
突然、零余の言葉が術具を通して怒涛のように垂れ流され始める。元々頭を使って物を考えることが多い分、思考と考察は止まるところを知らずに開始され、それが無秩序に言葉として流れ始めたのだ。それを聞き、先輩は目を細め、椿は軽い笑いを漏らした。他の面々もこんな状況で不必要な考えに頭を働かせる零余の姿に笑みを零す。それが伝わったのだろう。スピーカーから流れてくる零余が焦ったように問いかけてきた。
『な、なに? 笑ってる? ちょ、なんだよ……?』
「ひーらぎ、今はそんなことを気にしている場合じゃない。ひーらぎの力が必要」
『そんなこと言われても、今の俺はこのポシュシオンを止めるので精一杯なんですよ。こいつをぶち破ってくれたら、一応打てる手はあるんですけど』
「ならぶち破れ」
『恋? おま、気楽に言うな。って言うか、そっちは大丈夫なんだろうな。こっちは視界が悪すぎる。どうなってる?』
その言葉に答えたのは、一人、東堂の方を睨み続けていたエドガーだ。
「こちらは問題ない。あいつの興味は今、お前に向いている。少なくともまだ大丈夫だろう」
『エドガーか。なるほど、俺は化け物の消化を待つ食料の気分ってわけだ』
零余は呑気に軽口を叩いてみせる。いや、それが内心の言葉であるところを見れば、それが素なのだろう。そのいささか能天気な振る舞いに、カティは厳しい表情を浮かべる。
「柊くん、そんなことを言ってる場合じゃないわ。あなた、本当に大丈夫なの?」
『カティさん。全員無事か、良かった。デカイ奴を一発ぶっ放したから、どうなるかと思ったんだが。俺の方はまだ大丈夫だ。けど、それも時間の問題だな。だから頼む、カティさん。力を貸してくれ』
「え? 私?」
まさか名指しされるとは思わず、カティは素っ頓狂な声を上げてしまう。しかし、零余の言葉に嘘や偽りは絶対にない。心の内が表れているのだからそれは確実だろう。
カティは、咄嗟に考えることなく答えを返そうとした。この戦いの中で何か力を貸すことができるのであれば、それを迷う理由は無い。それに何より、他でもない零余の頼みだ。エドガーとの戦いの際は自分を支え、連れ去られた自分を、命を張って助けにまで来てくれた恩人だ。地下ではあまりに唐突なことでまともに話すこともできず、まだ礼も言えていない。それは、この状況下では変わらず同じだろう。だが、何か力に成れるのであればそうなりたかった。
だが、今のカティに出来ることは無い。それは、カティ自身が良く知っている。
「……ごめん、柊くん。私に出来ることなら頑張りたいけど、今、どうしても“爆轟の奏歌”が出せないの」
『なに? それはどういう――』
零余の言葉を遮るように、エドガーがその問いに答えた。
「奴のポシュシオンの能力だ。カティは、あの煙を被ったらしくてな」
『ちょっと待て。ポシュシオンの能力は調べたから知ってる。あれはただの精神汚染で……いや、如月先輩の言っていた封じるって意味……そうか、シュトラーフェの顕現は術者の意思によるもの。それを術者が真に望まなければ、出てくるはずもない。ポシュシオンの精神汚染の本質は、ある強い情動の活性化だ。過去のトラウマや精神的な傷を抉って、その想いを加速度的に増加させる。もしかしてカティさん、まだ――』
「柊!」
突然、エドガーが大声を上げる。それによって零余の思考は遮られ、言葉は途中で封じられた。
らしくない姿に全員の注目を集める中、エドガーは声のトーンを元に戻し、零余に問いかける。
「カティの力は、絶対に必要か?」
『……ああ、絶対に。ポシュシオンの魔力密度は、並の力じゃ突破できない。全力の“爆轟の奏歌”がどうしても必要だ』
「そうか……カティ、少し来てくれ」
そう言うと、エドガーはカティを人気の無いところへ引き寄せる。それを誰も引き止めることはない。何か事情があってのことだろうことはすぐに想像がついた。さらに言えば、それを引き止めるより先に目の前の事態が新たに進展したと言う理由もある。
今、東堂が動き出していた。ポシュシオンの余った煙を使い、コロッセオに撒き散らしたのだ。その波は円を描くように範囲を広げ、逃げ惑う人々に襲い掛かる。
『椿、恋!』
「分かってます!」
「ああ、任せろ! こっちはカティの力だって防いだんだからよっ!」
頼もしい二人の言葉を受け、スピーカー越しに零余が笑う。そこに二人に対する疑いは無く、この場で最も付き合いの長い二人だからこそ、寄せられる信頼と言うものがあるのだろう。
展開を始めるポシュシオンに対し、椿と恋が互いのシュトラーフェを組み合わせ、ポシュシオンを押し止めるように不可視の壁を築く。そこへ煙が接触した瞬間、凄まじい衝撃が椿の手を通して伝わってきた。それに押し退けられそうになりながら、何とか恋の力も借りて持ち堪える。
そんな二人を見やり、先輩は小さな声で零余にその事実を伝える。
「二人は頑張ってるけど、あまり保ちそうに無い」
『分かってます。先輩、この術具をエドガーに渡してもらえますか。代わりにエドガーから俺の預けたアスクレーピオスをいくつか受け取ってください。それで先輩自身を回復させれば、失った魔力も戻るはずです。その後は、たぶん、負傷者が何人かいるはずですから、その人たちの手当てを頼めますか?』
「おーけい。ひーらぎ、じゃあ後は任せた」
『先輩も気をつけて下さい』
先輩は、奥の方に行ってしまったエドガーたちを見る。何を話しているのかは分からないが、割り込めそうな雰囲気も無い。迷った末、書置きを残し、それを魔術の力で術具と一緒に壁に張り付けて置くことにする。それを満足そうに見て、零余に言われたとおり、負傷者の治癒に向かって走り出した。




