⑤
膨大な魔力が渦を巻いて周囲に漂い、淡い白の光に満たされる。
空間を埋め尽くさんと溢れ出した魔力の流れの中、その発生源たる零余は、手にした一冊の書冊を広げ、目を閉じていた。その身が纏う常軌を逸したそれらに目もくれず、ただ解き放たれる果てしない魔力を手繰り寄せ、一点に集中する。無造作に流れ出していた魔力は、その意思に従って動きに指向性を持ち始め、主の手前で形を成した。
黒いローブが舞い、鴉羽色の髪が揺れる。人工物のような際立つ白さを肌に持ち、琥珀の瞳が大きく見開かれる。すとん、と軽い音を立てるその足には何も履かれておらず、ローブから飛び出した手は驚くほど小さい。風が吹くようにして舞い上がったフードの先、そこから現れた顔立ちは、幼子のようでありながら、しかし童子のあどけなさなど微塵も無く、宝石のように輝く瞳は無機質な色を湛え、真一文字に結ばれた口元からは感情を窺い知ることはできなかった。大きく広げた両手は年相応にも見えるが、それが閉じられてしまえば、もはやそこにいるのは子供の姿をした何かだ。
――応身。零余の意志の体現者、力の解放者は、幼い少女の姿を取ってそこに現れた。
その姿や見た目に騙されてはいけない。確かに姿形は小さな少女そのものだが、身に纏っているのは計り知れないほどの魔力だ。白に発光する高密度の魔力が少女の身体から放たれる様は、夜闇の中で瞬く稲光にも見える。
その少女の登場に、零余を除き、その場に意識のあった者の誰もが目を奪われ、混乱に包まれた。一体、この中で零余の起こした現象に気づいた者がどれほどいるのか。
おそらくは気づいているであろう男に向けて、零余は閉じていた目を開く。同時に開いていた書冊から手を離すと、まるでそれは彼に付き従うように宙を浮き、動きを止めた。それに目もくれず、零余は一点だけを捉えている。
彼と同じ開闢域に到達した超越者。香壺のシュトラーフェ――ファルシュ・ハイリヒトゥムと彼が呼ぶ武具で以って強引に開闢に至った傑物。研究者を名乗るその姿からは想像も出来ないほどの力を持った、この戦場の暫定的な支配者。
東堂拓馬は、笑っている。得心が言ったように頻りに頷き、両手を広げて零余を歓待する。
その仕草を前に、零余は笑みすらも浮かべず、それどころかどうでもいいと言うように東堂から視線を外す。彼が見ているのは、手元でぐったりとした様子の彼の妹だけだ。それ以外に今の彼の意識を傾注するものは何も無く、ただそこにある少女だけが気がかりだった。瞼は重く閉じられ、絶えず荒い息を吐き出している。自分が今どんな状況なのかも理解していないのだろう。苦しげに上下する胸元に寄せた手が、痛みを堪えるようにぎゅっと握られる。
その姿を見て、零余の目が伏せられる。誰にも見せないように零した言葉は、ただその手元の少女にだけ告げられ、それを受けた彼女はほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。優しげな、見るものを安心させるような穏やかな笑み。そんな風にして笑う妹の頬をそっと撫で、零余は呼ぶ。
「――アスクレーピオス」
言葉に応じるように、応身の少女が右手を掲げる。そこに零余が放つ力の総量からすれば微々たる量の魔力が集まり、四本のメスを作り出した。宙に漂うそれは、少女が振り下ろした右手の動きに命ぜられるまま、それぞれの対象へと向かっていく。その一本は、最も至近にいた椿の身体目掛けて飛び、その身体を刺し貫いた。
その仲間を傷つけかねない光景に東堂は目を細め、次いで見る。刺された傷口からは血が一滴も垂れず、それどころかそのメスが魔力となって弾け、刺された対象の身体を覆っていったのだ。魔力は次第に対象の身体へと溶け込み、その身に受けた傷を修復し始める。折れた骨も、裂けた皮膚も、切れた血管も、それは残らず回復の兆しへと向かい、数秒と経たずに全快へと至る。
アスクレーピオス。それは、零余がかつて出会い、収集した回復の力を持ったシュトラーフェ。自身のみならず、そのメスのようなシュトラーフェで刺し貫いた者の傷を癒し、回復させる力を持つ。
アスクレーピオスの効果を受けたのは、椿だけではなかった。恋やカティ、エドガーもその力を受け、傷の一切を癒してしまう。同時に失っていた意識を取り戻したのか、状況を理解できていない呆けた表情と共に目を覚ました。その目が正しく零余と、その前で泰然自若として立つ少女の姿を捉え、その身に宿す膨大な魔力に気づき、驚いたような表情を浮かべる。
そんな中、全てを知る椿だけは、回復した己を見つめ直し、それから力の解放に至った兄の胸元で、口惜しげに唇を噛んだ。意図せずに伸ばした腕が零余の学生服を掴み、強く握り締める。搾り出された言葉は、己の不甲斐なさを呪う兄への謝罪の言葉だった。
「ごめん、なさい……兄様……ッ」
激情を必死に抑え込むようにして謝る椿の頭にそっと手を乗せ、零余は首を横に振る。もたれかかる様にしていた椿の身体を立たせると、その肩に手を乗せ、彼女を真似るように柔らかく微笑んだ。
「何言ってんだ、椿。謝るのは俺の方。助けに来るのが遅れてごめん」
心底から穏やかに、優しく、見る者を魅了する菩薩の笑みは、零余がこの世で確かな現実味のある記憶を持った時に最も初めに向けられたもの。だからこそ、彼はその笑顔の在り方を忘れない。どんな風にして笑い、どんな風に魅せればいいのかを覚えている。その笑顔によって救われたからこそ、その笑顔を作ることが出来る。
「椿、安心しろ。俺が守ってやる」
最後にポンっと頭を一撫でし、零余は一歩前に出た。それ以上の言葉は要らず、庇うようにして椿を後ろにやる。兄を守ると豪語した少女も、この時ばかりは何も言わなかった。惚けたように兄を見つめ、胸元に揃えた両手が手持ち無沙汰に揺れる。大きくも包み込むような魔力に当てられ、得も言えぬ恍惚とした表情を浮かべ、ただそこに立ち尽くす。
そんな妹の姿に気づきもせず、零余は自身の応身の隣に足を揃えた。表情一つ変えずに応身が彼を見上げ、対抗するように一歩前に出る。感情の色を窺わせないこの応身だが、決してそれらを持たないわけではない。主を守護する者としての意識を強く持ち、そのための在り方を心得ている。
“叡智の蔵より出でし至宝”――零余より与えられし名は、簡潔に呼んで「アル」と言う。
「行くぞ、アル」
「はい、マスター」
零余の呼びかけに応じ、アルは前に飛び出す。地面を滑るように移動し、黒衣をはためかせながら巨大な煙の魔人に迫る。
その姿を目で追いながら、零余は後ろの椿に指示を飛ばした。
「椿! 皆を限界ギリギリのミュールで守ってくれ!」
「は、はいっ!」
零余の言葉に我に返ったのか、慌てて返事を返すと、椿は状況把握に努める三人の下へ駆け寄った。場所を移動していた恋も集まってきていたらしく、三人の無事を確認すると、椿は指示通りにミュールを展開する。それも余裕のほとんどない、かなりの狭苦しさを感じるほどの大きさだ。だが、誰もそのことに文句を言うことはなかった。目の前で放たれる二種の膨大な魔力を前に、それがぶつかり合えばどれほどの余波が生まれるか、それが分からない者はこの場にはいない。
「マスター、武器を」
「ああ――ジェラルド」
零余が名を呼んだ瞬間、アルの手元に槍のような武器が出現する。棒の刃先に包丁のような刃を取り付けたそれは、紛れも無い契里直哉のシュトラーフェだ。魔力結合を分断する力を兼ね備えたその武器を片手で軽々と振るい、アルは煙の魔人へと肉薄する。
「ジェラルド、だと? 興味深いな。君の開闢、まさか他者のシュトラーフェを操るのかな?」
「さあ、どうだろうな」
余裕振って分析を行う東堂に、零余はまともに答えることはなかった。ただ応身同士の行く末を見守り、その結果に応じて次の手を用意する。用意した手はそれだけに留まらず、さらに次の手、そのさらに次の手と考えは膨らみ、無限の広がりを見せていく。
それは、まるで将棋を指す棋士のようなものだ。相手の手を読み、その上での最善手を選び抜く。
零余に高い身体能力は無い。それどころか、身体能力は並の男を下回ると言っていいだろう。特性を活かした魔術の才も無く、戦闘訓練を積んだことも無ければ、体術も使えない。だが、彼には頭がある。国を守り、敵を討つ勇猛果敢な将とは成れずとも、軍を指揮し、勝利へ導く帥とは成れる。
それこそ、柊零余の戦いだ。武具を握らず、知恵と智慧によって戦場を支配する。
零余があらゆる手をシミュレーションする間に、アルとポシュシオンの激突が始まる。大きくはあれど鈍重なポシュシオンに対し、アルの動きは素早かった。跳ねるように飛び回り、ポシュシオンにその動きを捉えさせないばかりか、擦れ違いざまにジェラルドによる攻撃を加えていく。だが、刃先を中心に行われる魔力結合の解除は、膨大な魔力で高密度を誇るポシュシオンの身体を完全に霧散させることは出来なかった。切れたとしてもすぐに身体は再生を果たし、元の形へと戻る。そも、身体自体が煙で出来ている以上、刀剣による切断は無意味のように思われた。
そのことにアルが気づき、即座に主への指示を求めるより早く、その手に新たな武器が現れる。
「――アヴェルテレ」
一度はポシュシオンの身体すらも歪ませたそれをパージし、アルは強引な形でジェラルドと組み合わせる。その力で以ってジェラルドの力を強化する様は、一種異様なものにも見えた。本来であれば魔力を解除するはずのジェラルドが、その魔力で以って力を強化されているのだ。通常であれば為し得ないこの現象も、元が同じ魔力であればこそのものである。ジェラルドは、自身を構成する魔力だけは分断することは無い。当然、同じ零余の魔力で創られたアヴェルテレも消すことはないのだ。
アルの手にあるのは、中世ヨーロッパで扱われた槍――いや、ランスと正しく呼んだ方が的確な代物だ。刃先から手元に掛けて花の花弁から先を思わせる造りと成ったそれを握り締め、アルは眼前の敵へ迫る。その一撃を前に、さしものポシュシオンも両腕を交差し、守りの構えを見せた。攻撃に転じる暇も与えず、アルはそこへ怒涛の連撃を叩き込む。アヴェルテレが組み合わさったジェラルドは、先の比ではない。その効果を増幅によって強化され、ポシュシオンの身体を削り取っていく。身体を構築していた魔力は再結合を困難にするまで削り取られていき、ポシュシオンが守るようにして組んでいる腕もどんどんその容積を減らしていった。




