①
如月歩美にとって世界とは、色褪せた物語だった。
像を結ばない虚像、現実感の伴わない場景。何を見ても、何を聞いても、それら一切が心の芯を揺することはなく、その周囲を不安定に漂い、知らずのうちに消えていく。
父が、母が、兄が、妹が、自分の取り巻く全てがはりぼてにしか見えず、日々を歩む足場は不明瞭で心許無い。一歩進むたびに暗闇へと足を踏み入れていく恐怖だけが、如月の周囲にある世界だった。
誰も彼女の心を動かさない。
彼女もまた、誰の心も動かさない。
父が言った――お前は優秀な如月の娘だ、と。
母が言った――優秀なソルシエールになりなさい、と。
兄が言った――お前の成長を期待している、と。
妹が言った――お姉ちゃんは凄い、と。
響かない。その一つも、一つ足りとて彼女の心に響かない。言われた言葉の何もかも、彼女の杯をまるで満たさないどころか、注がれる泥水で腐食していくばかりだ。日を越える度に彼女の杯は腐っていく。本来、満たすべきもので中身を埋めることもなく、ただ汚泥だけを積み上げていく。
だからこそ、十二歳の誕生日、初めてシュトラ―フェを拝受すると聞いた時も如月は特に何も思わなかった。変わらない世界もそのままに、自分を取り巻く灰色の日常に黒か白かのコントラストが追加されるだけ。そんな風に思い、機械的な造りをした椅子に座り、言われるままに謎の被り物を被った。
その日は、特に何も起こらなかった。ただ、自分の放つ力の量が上がったと感じた程度だった。
だが、日を追う毎に彼女は実感し始める。
それは、ほんの小さな芽吹きに過ぎなかった。ある時、小さな塊が彼女の目の前に現れた。不思議なそれを手に取るも、何の反応も示さない。特に興味も無く部屋に放置し、学校へ行く。帰ってくると、それは大きさを増し、短い円筒形の何かが追加されていた。不思議な光景である。しかし、やはり彼女は何の反応も示さない。手に取って一瞥し、床に転がして放置した。
次の日、目を覚ますと、それは小さな塊と大きな塊を円筒形の棒のような物で繋いだ形を取っていた。その頃には、すでに大きさも十二歳の少女で抱えられるほどの大きさでは無くなり、持ち上げるかどうか迷った末に諦め、やはり放置した。いつものように学校へ行き、交われない喧騒の中を過ごし、家に帰る。部屋に戻ると、塊には腕と足が生えていた。もはや、それが何か彼女には分かってしまった。
これは、人形だ。それも彼女と同じくらいの大きさを取った人間大のパペット。それは次第に魔力を放ち始め、カタカタと不気味に揺れ始める頃になって、ようやく彼女は気づく。
これ、捨てなきゃ。
さすがに不気味に思い、彼女はそれを持ち上げようとするが、その重さもまるで人間並だ。少女の力では持ち上げることも出来ず、ならば引っ張ろうとロープを巻きつけて引いてみるが、動くたびに木の床に傷をつけたせいでそれも躊躇われた。腰に手を当て、彼女は迷った末に結論付ける。
自分には魔術の力があった。しかし、思いついたそれは使える案ではなかった。彼女の特性は『識』にのみ特化しており、それ以外は平均以下でしかなかったからだ。この大きな人形を運ぶために必要とされる『空』の力はまるで機能せず、しばし考えた末に彼女は放置することに決めた。
さらに次の日、彼女は何者かに揺すられることで目を覚ました。暖かな太陽の日差しが瞼の裏からでも感じられ、朝特有の気だるげな感覚と共に閉じた目を開いた先には、一人の少女の姿がある。見覚えの無い、特徴的な三白眼を持った少女。
世界全てを好むようにニコニコと笑うその姿は――単純に如月を苛立たせた。
一目見ただけで不愉快な感情が刺激され、気づけば彼女は手を出していた。笑う彼女の顔面をグーで殴りつけ、倒れたところを丸っきり無視して通り過ぎていく。一日の始まりに起こった不愉快な出来事に顔を顰めた如月の姿は、彼女の家族を大層驚かせた。
その日もまた変わり映えのしない無味乾燥な学校生活を過ごし、家に帰る。日常のサイクルは変わることなく回り続け、部屋に戻ると、少女がニコニコと笑顔で待ち構えていた。それから両手を駆使して顔を変形させてみせる。変顔のつもりだろうか。如月はまたも苛立たしさを覚え、少女の顔面に蹴りを叩き込んだ。しかし、少女は笑みを絶やさなかった。何が楽しいのか如月の周りを動き続け、構ってと言わんばかりに腕を引っ張ってくる。鬱陶しいそれを相手にする気にもなれず、先日に放置していたロープを使って少女の身体を拘束すると、床に転がして放置した。少女は笑ったままである。遊んでもらっているとでも勘違いしたのかもしれない。その日は、少女を拘束したまま眠りについた。
その次の日、やはり如月は少女によって目を覚ました。動けない身体でぴょんぴょんと跳びはね、強引な方法でベッドを揺らしてくる。その姿を認識し、その笑顔を視界に入れ、如月はその頭頂部に手刀を叩き込んだ。少女は笑ったままである。もう一度叩き込んだ。やはり、少女は笑ったままである。さらにもう一度叩き込んだ。そろそろ少女の笑顔が崩れ始めた。さらに追加でもう一発叩き込んだ。ついに少女の笑顔が崩壊し、泣き顔になった。涙は流れないが、きっと泣いていた。
ようやく如月は満足し、止めの蹴りを叩き込んでその場を後にした。
その日、学校から帰った如月を襲ったのは、楽しみにしていたプリンを食べられたと言う衝撃の真実だった。彼女の母が言うには、少し前に持って行ったと言う。おかしな話だ。如月は今帰ってきたばかりであり、冷蔵庫の中身を開いたばかりである。
謎は残り、納得のいかない面持ちで彼女の部屋へ戻ると、そこで少女がプリンを食べていた。
即座に床を蹴り、如月は拳を少女の顔面に叩き込んだ。衝突の瞬間に拳を捻って放つ一撃。先日テレビで見たばかりのそれは、思いの他上手く機能し、それを受けた少女が吹っ飛んだ。プリンも吹っ飛んだ。
如月は肩を落とし、床を片付けるように少女へ命じた後、部屋を後にした。新しいプリンを買いに行った。
二つ入りのプリンを買って意気揚々と部屋に戻ると、そこには片づけをする少女の姿があった。たかがプリンの片付けに何分掛かっているのだろう。腹が立って、如月は少女の頭を叩いた。
その日の夜、暗闇の中で天井を眺めながら如月は考えていた。自分の世界に唐突に現れた少女。おそらくは、先日までの人形が具象化した姿なのだろうが、何故か人間のように笑い、人間のように行動する。
いや、人間ではない。彼女の人生の中で人が干渉した事実は一切無かった。誰も彼女の心を響かせず、彼女も誰の心も響かせなかった。だが、あの少女は如月を一発で苛立たせたばかりか、目を合わせるたびに怒りを生み出し、一度として他人に振るったことの無い暴力行為に走らせた。他人に触れる、と言う自らの意思で行ったことの無い経験に向かわせた。そんなことをさせる存在が人間であるはずがなく、ならばあれは何なのだろう。
如月は、少女を見る。いつも通り床に横になり、いつの間に解いたのかロープはすっかり外れてしまっている。暢気に眠るその姿は、まるで人間のようではあるが、しばらくしてその姿が人の形を失っていった。やがて現れたのは、以前も見た人形の身体。この少女は、人形だった。
それから一週間が経ち、如月は風邪を引いて学校を休むことになった。朦朧とする意識の中で病床に伏せ、母の看病を受ける中、彼女は自身のランドセルが姿を消していることに気づいた。だが、特に頓着することもなく、その日は眠って過ごした。
三日経って風邪が治り、学校へ行くと、何故か彼女は人に囲まれた。見知らぬ人が彼女に声をかけ、親しげに言葉を投げかけてくる。その突然の対応に困惑し、彼女はすぐに教室を飛び出して家に帰ってしまった。
そこには、母と楽しげに話す自分がいた。
いや、違う。そこにいるのは、人形だ。彼女の前に突如として現れたお人形。彼女が生み出したシュトラーフェ。人の精神を操り、自身の姿を幾重にも異なって見せるドール。
パペットドール――それが彼女の手に入れた、不可思議なシュトラーフェだった。
パペットドールは、次第に彼女の世界を侵食し始めた。不必要と断じた学校へは次第にパペットドールが行くようになり、家族との付き合いもこの人形がこなすようになった。その代わり、如月は部屋の中で閉じこもり、本を読み、魔術を鍛えた。そのおかげか、話すことが出来なかったパペットドールは視覚だけではなく、人の聴覚も操り、何故か物まで日常的に食べるようになった。食の味を覚えたせいで好物のプリンを横取りされるようになったが、煩わしい日常を最小限に済ませられることに満足していたせいか、その時は特に腹立たしくも思わなかった。
部屋で過ごすことが多くなるにつれ、彼女は考えることが多くなった。
世界のこと、自分のこと、自分の不思議なシュトラーフェのこと。名前が欲しいと言うから自身の名前を分け与えた彼女は、何故ああも楽しげに笑うのだろう。自分から生み出された魔力が形を成した存在のくせに、その目に宿るのは輝かしい色ばかり。生まれた当初からニコニコと笑い、陽気に振舞うその姿に如月は疑問を感じずにはいられなかった。
その疑問は、すぐに解消されることとなった。
ある日、如月の姿をしたパペットドールが、母に叱られていたのだ。理由は、喧嘩で相手を傷つけたからだそうだ。その時、パペットドールは落ち込んだ素振りを見せながら、口元に笑みを浮かべていた。暗い、暗い邪な笑み。あの姿こそ、如月の生み出したシュトラーフェの本性に相違なかった。
その笑顔を見て、ようやく如月は得心が行った。彼女が何故、パペットドールの浮かべる笑顔に苛立ち、殴っていたのかを。あの悪性を煮詰めたような姿に気づいてたいたからこそだ。
世界を灰色に見た如月が生み出したのは、黒と白を使い分ける奇怪な少女だった。
その姿を見て、その自身と寸分違わぬ心の在り様を見て、如月は気づいてしまった。
その姿の汚らわしさ。そうしてそれは、彼女が自身の在り様を見つめ直した瞬間でもあった。
その日から、名前を失って苗字だけとなった少女は、ずっと願い続けている。
この醜い己をどうすれば消してしまえるか。どうすれば、灰色の世界に色を塗ることが出来るか。
ずっと、彼女は願い続けている。
そのために東堂に与し、彼らの目指す先とは逆方向を求めた。歩美は純粋に力を求めていると思っていたようだが、如月は違う。歩美を――醜い己を消滅させる方法だけを追い求めた。
それに何より、何より許せないことがあるのだ。
あの日からずっと、この醜い少女は如月から奪い続けているのだ。
最初はプリンに始まり、次にケーキに始まり、どんどん好物を奪われていく。今に至っては、折角のシュークリームまで奪われた。
「――もう、お菓子を奪われたくない」
「そんなオチ!?」
長々と語られた如月先輩の話を聞き終え、俺は当然のツッコミを入れた。




