⑨
一枚一枚、手渡されたプリントを捲っていく。そこには、零余が考えてくれた様々な状況に対応した作戦が書かれているのだが、それが頭に入ってくることはなかった。ただ字面だけが上滑りしていき、内容が一向に頭に入ってこない。プリントを握る手は、かすかすに震えを帯びている。
コロッセオの控え室。つい三日前にも訪れたばかりのそこで、カティはソファに腰掛け、内心の不安と戦っていた。傍らでは椿が何やら電話しているようだが、誰と話しているのかは分からない。普段であればその相手が零余だとすぐに気づいただろうが、今の彼女にそんなことを判断しろと言うのは酷なものだろう。決して表には出さないが、心臓は早鐘を打ち、ふとした瞬間に足が震えそうになる。疑いようも無く、これは恐怖だ。
時計がカチカチと音を刻む。その針が進むたびに、カティは一歩ずつ死刑台へと近づいていくような心地がした。あの針が五時半を指せば、カティはアナウンスの指示に従い、コロッセオの選手用ゲートからあの広大な闘技場に立つこととなる。そこには、彼女の兄であるエドガーが待ち構えていることだろう。
結局、カティは二日と言う短い期間でこの恐怖を克服することはできなかった。かつてのように自分を興奮させて恐怖に立ち向かうことはできるだろうが、身体に刻まれた痛みまで乗り越えられるわけではない。どこかできっとぼろが出る。エドガーはそんな恐怖心を持ったまま抗しうる相手ではないと言うのに、カティは情けない思いで一杯だった。
プリントを捲る手が止まる。そこそこ束があったはずだが、気づけばすでに全て捲り終えていた。その内容の一つも読み込めていないというのに、妙な疲労感だけがある。プリントを再度最初に戻し、もう一度一文字ずつしっかりと追ってみるが、やはりそこに書かれた内容は頭に明確に入ってこなかった。それが焦りを生み、勝利への不安を募らせる。
頭を振り、カティはプリントをテーブルに置いた。気持ちを切り替えるように天井を見上げ、そっと目を閉じる。しかし、そこでカティは思案した。一体、何を思い浮かべればこの不安が消えてなくなるだろうか。
故郷の風景を思い出す。この都会化した日本と違い、山々が聳え立ち、木々の生い茂る自然豊かな情景が懐かしかった。だが、そこにあるのは兄であるエドガーとの思い出だ。楽しかったあの頃は、同じくらいの悲しみも孕んでいる。
違う。これじゃ駄目。
兄のことを思い出していては、結局恐怖を増長させるだけだ。それより、兄とは無関係な何かを思い出せないかと頭を振り絞る。すると、出てきたのはここ最近の思い出ばかりだった。特に衝撃的だった兄の関わる事件を除けば、本当に大したことの無い記憶だ。零余の土下座から始まり、この控え室に殴りこみ、三人でカフェへ赴き、恋と知り合った。たったそれだけの、ちょっとした平穏な思い出。だが、そこに恐怖の色はなかった。
思えば、カティは二ヶ月前からずっと兄の影に怯え続けていた。身体に刻まれた傷が、痛みが、何度も何度も夢の中で思い起こされた。汗だくになって飛び起きたこともある。眠れずに一夜を明かしたこともある。その恐怖を、零余や椿、恋と語り合ったときだけは忘れられた。子供の頃から思い続けた夢を打ち明け、そのことを呆れられたのは不本意ながらも、椿とぶつけ合った闘志は本物だった。
ああ、そっか。
ふと、カティは気づく。あの日、半ば衝動的に全てを零余に打ち明けたとき、教えてくれた言葉の意味をようやく理解する。ずっと分からなかったそれが、胸の中にすとんと落ちてくる。
「それじゃカティさん、私は先に観客席に行ってますね」
不意にかけられた声に、カティは目を開く。いつの間にか椿が通話を終え、立ち上がっていた。言葉通り、先に観客席へ向かうところなのだろう。その姿にふと疑問を覚え、カティは問いかけてみることにした。
「柊くんを待たなくていいの?」
椿は、零余を何より第一とする女の子だ。これから兄が危険な戦いに赴くと言うのに、顔の一つも見ないでいいのだろうか。
「兄様とは、さっき電話で話しましたから」
「でも――」
食い下がろうとするカティに対し、椿は儚く微笑んでみせる。今にも泣き出しそうな、同時にある種の強さを感じさせる表情だった。それを目にして、カティは二の句を告げなかった。分かってしまったのだ。椿がどれほどの不安を感じているか。どれほど、零余を心配しているか。
「ここで会ったら、戦わないでください、ってそんな我侭言ってしまいそうですから」
だから、と椿は続ける。真摯な瞳でカティを見据え、頭を下げる。
「兄様を、よろしくお願いします」
「…………………っ」
本気のその思いに、カティは自分の感じていた不安や恐怖が薄れていくのを感じていた。常であればプレッシャーにもなるそのお願いが、今は何故だか心地よく感じてしまう。自分の力が頼られていると言う事実が、今までに無い感動を呼び覚ます。
ずっと、カティは思っていたのだ。自分の力は使ってはいけないものだ。人を傷つけてしまうものだ、と。だが、今、その力を頼りにしている友達がいる。自分のために傷ついた友人が、必死の思いで願いを託している。
(怖がってる場合じゃない……)
恐怖はある。不安もある。それはきっと、真にエドガーと和解するまで消え去りはしないだろう。仮にエドガーとよりを戻しても、ふとした拍子に頭を過ぎるだろう。だが、怖くなったとき、辛くなったとき、思い出せばいい。カティの胸に溢れる確かな温かみ。自分に勇気を与えてくれるこの思いの数々を。
震えは止まった。カティは立ち上がり、顔を上げた椿と視線を合わせる。
「私に任せて」
二人で頷きあい、それ以上は何も言わなかった。去っていく椿を見送り、大きく深呼吸する。眼前に広がるゲートを見据え、その延長線上に立つだろう兄の姿を思い浮かべる。きっと今頃、あの万事周到な兄のことだ。最後の調整でもしているのだろう。
カティは、想像上の兄に指を突きつけ、誰もいない空間に向かって声を放つ。
「――絶対、勝つ」
言った直後、控え室の扉が開かれる。現れたのは、カティを不思議そうに見つめる零余だった。数十分前に勝手に姿を消して以来、何かをしていたようだが、カティはそのことについて言及する気はなかった。必要であれば、零余ならカティへ教えてくれるはずだ。何も無いということは、話す必要が無いということだろう。
「ごめん、勝手にいなくなったりして」
開口一番、零余は謝罪を口にする。カティは微笑んで首を横に振ると、幻想の兄へ向けていた指を下ろした。
二人は、そのまま押し黙ってそれぞれに寛ぐと、過ぎていく時間に身を任せた。
時計は徐々に時間を刻み、やがて残り一分となったところで、零余は思い出したように口を開く。その手をテーブルに置きっぱなしのプリントに向けられていた。
「そういえば、全部覚えたの?」
「あ」
そう言えば、集中できないと言う理由で一時プリントから目を離してしまっていた。カティはその事実を思い出し、苦笑いする。とんでもないことをしてしまったと言う思いはあるが、不思議と不安はなかった。
「カ、カティさん?」
「まっ、大丈夫でしょ」
何の気なしに言ってのけたその言葉が、零余の目を見開かせた。彼は何かを察したように目を伏せ、テーブルのプリントを拾い上げると、室内脇に置かれたゴミ箱に放り捨てる。どうせ覚えていないんだ。なら、もうこんなものは用済みだろう。
それに、こんなものを読むことよりももっと有意義に時間を使ってくれたことに零余は気づいていた。
零余に向けられたカティの瞳。そこに怯えた色は一切無く、表情は明るく輝いている。これから戦いに身を投じると言うのに、まるで緊迫感を抱いていない。そこにあるのは、確かな気持ちの強さだ。
「なら、カティさん。これだけは覚えておいて」
せめて、と思い、零余はある作戦だけを口頭でカティに述べる。一度に頭に叩き込むには少し複雑だが、カティは問題なさそうに頷いた。そこに疑問を抱く余地は微塵も無い。
時計の針がついに試合開始の時を告げる。ゲートを通じて観客席の方から歓声が沸き起こり、それは一瞬のうちにコロッセオを狂騒の波に押し上げていく。
カティは、しっかりとその先にあるものを見据え、何を思ったか零余に手を差し出した。特に何も言わず、視線だけを送ってくる。
(こ、こんなことしたら、噂に拍車が……)
そう思いはしたが、零余はその緋色の瞳に宿る熱に当てられ、自然とその手を取っていた。繋いだ手を通して感じる確かな温かさが、これから守らなければならないものを二人に教えてくれる。その実感が、決して心の強くない二人に勇気を与えてくれる。
「「行こう」」
二人の声は重なり、同時に一歩、足を踏み出した。
次からエドガー戦となります




