⑧
二日という時間は、騒々しくもあっという間に過ぎていった。
エドガーとの一騒動の次の日、フォルセティの公式ホームページに乗せられたコロッセオのある対戦カードが学園中を震撼させた。ランク六位、グラディアートルに数えられ、“不可避の刃先”の異名を持つ三年生、エドガー・ブレイズフォードが対戦者指名権を行使し、二人の一年生に戦いを申し込んだことが明らかになったからだ。もちろん、その一年生とは、俺とカティさんのことであり、この事実を受け、その日から俺は更なる注目を浴びるようになった。直接的に事情を聞いてくる者もいれば、間接的に噂をする者、遠目から興味深そうに眺めている者、とにかく様々な情報が錯綜し、教室にいてもその手の話題が聞こえてくるという始末。友人であり、共に失踪者の手がかりを探していた恋にだけは事のあらましを伝えたが、他の学生にまで事情を説明できるわけもなく、結果、俺が曖昧に濁したこともあってか、真偽の入り混じった様々な噂だけが飛び交うようになった。さらにこの事態に拍車をかけたのは、エドガーがカティさんの兄である、という点である。兄のエドガーに対し、カティさんと手を組んで挑む、というこの何とも言えない構図が色好きの女子どもを賑やかせたようで、やれ二人の熱愛だのお兄さんに認めてもらうための決闘だのとあることないこと――いや、ひたすらないことばかりが噂されるようになった。この時の椿の苛立ちっぷりと言ったら、想像するに恐ろしい。先輩の力で怪我が治ったといっても、まだ体調は悪いはずなのだが、あの時の般若のような表情は忘れられない。ともすれば好き勝手に噂をばら撒く諸悪の根源を討ち滅ぼさんとするかのような勢いだった。
そう、いるのだ。この噂を扇動し、好き勝手に吹聴している馬鹿な人が一人。お調子者でペラペラと喋り、うざいぐらいに陽気な知り合ったばかりの先輩が一人だけ。
「色々、てきとー言っちゃった。ごめんね、てへっ」
三年生の教室を訪れ、散々文句を口にした俺に向かって、如月先輩はわざとらしく自分の頭をこつんと小突く。そのぶりっ子のような振る舞いは、俺のささくれ立った気持ちに更なる棘を植えつけたが、ここで怒鳴っても話がややこしくなるだけなのでグッと我慢する。あまりこんなところで時間を掛けていたくもないのだ。
時計を見る。時刻は、五時を少し回ったところ。今日の授業はすでに終わっており、二十分ほど後にはエドガーとの対戦が控えている。如月先輩相手に無駄口を叩いてもいられなかった。
俺は再度、教室全体を見渡し、先輩に確認する。
「本当に昨日から契里先輩は学校に来ていないんですね?」
俺がここに来たのは、あの後の契里先輩の様子を探るためだった。俺たちを見ていると言っていたエドガーを警戒させるような真似はしたくなかったが、これだけはどうしても済ませておかなければならなかったのだ。本当なら昨日のうちにもここを訪れたかったところなのだが、エドガーに警戒させないよう、ギリギリまで時間を置いた。ここで話を聞き、コロッセオに向かったとして、今さらあの男が椿やカティさんを襲うとも思えない。待ちに待ったカティさんとの対戦だ。それを自分からぶち壊すようなことはしないだろう。ゆえにこんなにギリギリまで待ってから、この教室で如月先輩の話を聞きに来たのである。
「うん、来てないね。にしもてどーしたのかなぁ、契里くん。ようやく戻ってきたのにね~」
如月先輩は、不思議そうに小首を傾げている。その様子を見るに、契里先輩が学園に来ていないということは嘘ではないのだろう。現に今、彼の姿は教室のどこにもない。念のため契里先輩の席に案内してもらったが、机の中には無造作にプリントが放置されており、それを取り出された形跡もなかった。ちょうど昨日の日付のプリントまである。これだけ揃えば、もう確信してもいいだろう。あの日以来、契里先輩は姿を眩ましている。
理由は分からない。事件の発覚を恐れてのことだろうか。それとも、あまり考えたくはないが、エドガーに始末でもされたのだろうか。どちらにせよ、あの男の行方が知れないというのは、俺としてはあまり喜ばしい状況ではなかった。
「契里くんがどうかしたの?」
能天気な様子の如月先輩の問いに、俺は即座に答えることができなかった。思考は別のことで埋め尽くされ、それを取り繕っている暇はない。結局、如月先輩に一言挨拶を済ませ、俺は教室を後にする。背後からこちらに向かって大声がかかるが、もはや気にしてはいられなかった。
足は真っ直ぐコロッセオを向いている。契里先輩の件は、一先ずは置いておくほかないだろう。今はもう、気にかけているような時間でもなくなった。
携帯を取り出し、椿に連絡を入れる。すでにコロッセオの控え室でカティさんと待機している妹は、すぐに電話に出た。
『兄様……』
俺を呼ぶ声は、緊張を過分に含んでいる。昨日の今頃は自分も戦うなどと駄々を捏ねていたが、実際に戦う俺よりも気を張っているように感じられることには少しだけ笑ってしまった。そんな俺の笑い声が聞こえたのか、椿の不貞腐れたような声が返ってくる。元気そうなその声に、一瞬だけ二日前の傷ついた妹の姿が浮かんで消えた。
「すぐにそっちに着くから、カティさんには渡しといたプリントを読み込んでおくように言っといてくれ」
『あの作戦書ですか? それなら大丈夫ですよ。今もカティさんはしっかりと頭に叩き込んでいます』
なるほど、優秀だ。
これから俺たちは、命をかけた危険な戦いに赴くこととなる。コロッセオなのだから死なないだろう、などと甘いことは言っていられない。エドガーと対戦した多くのクラティアは、その力によって大怪我を負わされているのだ。あの男に手加減や容赦という概念はない。生温い考え方は全て捨て、勝つためのあらゆる作戦を考えた。それはすでにプリントアウトし、カティさんに渡してある。
『それにしても兄様、一体何をしているんですか? 一人でどこかに行ったりして、危ないじゃないですか』
椿は、俺がエドガー以外の誰かに襲われることを警戒しているのだろう。そもそも今日を含めたここ二日間は三人ほとんど一緒に行動しようと提案したのは俺だ。その俺が勝手にいなくなりもすれば、非難の言葉も当然と言える。
俺が今していることを教えたら怒るだろうなぁ。
ぼんやりと頭の中で腰に手を当てた椿の姿が思い浮かぶ。俺に対しては決して他人に向けるような怖い表情を浮かべないが、それでも怒らせたと言う事実は俺の中で嫌な思い出として残る。ここは、お茶を濁しておこう。
「悪い悪い。ちょっとトイレにな。それより、もしカティさんが緊張しているようだったら、何か声をかけてあげてくれ」
『声、ですか?』
「気晴らしができるような世間話で良いから」
『そうですか、では』
「ああ、それじゃ――」
そう言い、通話を切ろうとしたところで俺は椿が未だ話し続けていることに気づく。まだ何か話があるのだろうか。
『兄様、私がこの前買ってきたクッキーをどこにやったんですか?』
「……………………」
いきなり出された話題に、俺は思わず押し黙ってしまった。決して後ろめたい思いがあるわけではない。
『知らない間に無くなってて私、すごく驚きました。とても楽しみにしていたんです。一日一枚ずつ食べようって、二週間は食べられるぞ、って』
なんか貧乏くさいな。いや、絶対に口に出せないけど。
『貧乏くさくないです。生活の知恵です』
どうやらすっかり心を読まれているようだった。
「い、いや、あれは事情があってな。俺の方も苦渋の決断だったというか、いや悪いとは思ってるんだけどさ」
言ってて俺はしどろもどろになってしまう。足は確かにコロッセオへ向いているはずなのに、何だか後戻りしたくなってきた。あそこには、笑顔で怒る妹様が待っている。妹は特に何かをしてくることはないだろう。ただ、ずっと見てくるに違いない。ずっと俺にプレッシャーをかけてくるに違いない。
俺がそんな風に恐れていると、椿は妥協案を提示してくれた。
『悪いと思ってるなら、今度同じものを買ってきてくれるんですよね?』
「あ、ああ、もちろんだとも!」
うぅ、また出費が。俺のお小遣いが……。
俺は絶望の思いに打ちひしがれる。すると、不意に耳元で笑い声が聞こえてきた。どこか楽しそうな、それでいて聞いてくるこちらまでも心穏やかになるような、鈴を鳴らしたような美しい声。これが椿の声ではなく、二千五百種類の中から選ばれた声だなんて信じられない。耳を打つのは、確かな俺の妹の声に聞こえる。
『なら、絶対に大怪我なんてしてはいけませんね。傷を治しきれずに入院なんてすることになったら、いつまで経っても私がクッキーを食べられませんから』
「……椿」
椿の思いにはたと気づく。急にクッキーのことを言い出した時は何事かとも思ったものだが、そこはやはり双子だからか、あるいは兄妹だからか、椿は、俺が自分自身ですら分かっていなかった張り詰めた思いに気づいていたみたいだ。
『兄様、私は先に観客席に行っていますね。カティさんの方は、兄様なんかよりもずっと覚悟を決めているみたいですし』
「そっか……カティさんが」
二日前、戦うことが怖いと漏らしていた姿が思い起こされる。あの時からたった二日でずいぶんと前向きになってくれたものだ。あるいは、それが今はただの強がりであったとしても、カティさんならきっと戦いの中で乗り越えられる。俺はそう信じている。
彼女の思いを聞いた。彼女の痛みを知った。
その抱えているもの、それを抱え続けてきた強さを思えば、俺はカティさんがエドガーの恐怖に立ち向かえると信じられる。
「椿」
『はい』
「俺は――俺たちは、勝つよ」
俺は力強く、椿に俺の緊張など微塵も伝わらないようにしっかりとそう口にする。もう、妹を心配させるような情けないことはしない。
『はい、当然です』




