④
零余もエドガーも黙ったまま動かない。最後と言い置いた以上、零余は次の言葉を紡ぐことを許されない。それだけではなく、長々とエドガーの反応を待ってもいられなかった。最悪、本当にカティを傷つける必要すら出てくる。
もし、と零余は思う。もし、本当にエドガーが結論を出さなければ自分はどうするだろう、と。
(カティさんを手にかけるか……いいや、あり得ない)
そんな選択を取れるような人間でないことぐらい、零余自身がよく分かっている。だが、もしこのままエドガーが何も言わなければ、本当に万策尽きる。零余にこれ以上の策はない。この危機的状況を打破する術はもうない。
不安と緊張が膨れ上がってくる。それを意思の力で捻じ伏せ、目に見えて表れないように抑え付ける。零余は、これまでの人生の中で一番、必死なほどに感情を堪え続けていた。
やがて、どれほどの時が過ぎただろうか。零余にとっては永遠にも似た時間の中、実際は数十秒程度の時間ではあったが、エドガーが結論を下す。構えていたシュトラーフェ――トラヴィアータを消し、戦意を解く。
「いいだろう。お前の誘いに乗ってやる。どうせこのままでは、カティとの本気の戦いなど望むべくもない。だが――」
「だが?」
零余は聞き返す。さすがにあっさりとエドガーが引くなどとは思っていなかった。何らかの条件を要求されることぐらいは予想のうちだ。その条件もまた、エドガーの望みを思えば想像もついてしまう。
「お前が実現して見せろ、本気のカティとの対戦を。それが成されなければ、お前とその妹を殺す。同じフォルセティの学園生だ。逃げられると思うなよ?」
零余の肌が恐怖で粟立つ。初めて零余に向けて放たれた殺意は、想像以上に恐ろしいものだった。
カティは、ずっとこんなものを向けられ続けていたのか。
頬を伝う汗の感触を感じながら、零余は同情の念を禁じえなかった。こんな凄まじい気迫に当てられてしまえば、あんな風に倒れこんでしまうのも分かる。さらには、カティはそれ以上の恐怖を与えられた可能性があるのだ。
「……分かった。約束する。けど、一つ答えてくれ。あんたや契里先輩が本当にフォルセティの学生を浚ったのか? ここも人気が無いが、それも全てあんたたちがやったのか?」
「なるほど、抜け目ない。情報収集は怠らないか」
零余にとっては単純な興味に過ぎなかったが、エドガーはそれを好意的に捉えたらしい。初めて零余を認めたような表情を浮かべると、特に隠すことなく答えた。
「学生の失踪の件は俺たちの仕業だ。ここの人避けは契里がやったことだがな。大方、カティと誰にも邪魔されずに戦いたかったんだろう。しかし、それを知ってどうする? 分かっているな。事の真相を誰かに話してしまえば、その時点で約束は反故になったと判断する。学園を休んだりしても同様だ。必ず顔を出せ。俺はお前たちを見ているぞ。もし、少しでも怪しい動きを見せれば、お前たちを殺し、カティを連れて行く。妹を危険な目に巻き込みたくないんだろう?」
「ああ、分かってる」
「そうか、なら構わない。期日は明後日。舞台は……そうだな、カティが憧れて止まないコロッセオなんてどうだ? 試合は俺が組んでおこう」
零余は、カティを一瞥する。事態を把握しているはずだが、カティは未だにエドガーを恐れている様子だ。特に肯定的な反応は見られないが、今はそのことに頓着している場合ではない。この現状を抜け出す以上、カティにも一つぐらいは犠牲を払ってもらう。ただし、その犠牲をカティにだけ課すつもりは、零余にはなかった。
「分かった。だが、こっちも条件が一つある。カティさん一人とあんたじゃ、あまりに分が悪い。カティさんの本当の力があったとしても、それを知っているあんたが何も対策をしていないとは思えない。それにカティさんに本気を出させる件もある。……俺も、その戦いに参加する。二対一の変則バトルだ」
「に、いさま……!」
地面に倒れていた椿が悲痛な叫びを上げるが、零余はそれを無視した。仮にどれほど危険であっても、カティの意思を聞かずにこんな約束を取り付けるのだ。それも半ば自分たちの命を彼女に押し付けるような形で。そんな事をしておいて、自分だけ安全圏から事態を見守るつもりなど零余にはなかった。
エドガーは零余の出した条件を否定するつもりは無いのか、特に何も言わず、踵を返して去っていく。途中で民家に突っ込んだまま意識を失った契里直哉を拾い上げ、消えるように姿が見えなくなった。
しばらく、零余はその場を動くことができないでいた。緊張と恐怖はエドガーがいなくなった後も抜け切らず、遅れて安堵感が押し寄せてくる頃になって、ようやく堪えていた震えが蘇ってきた。思わず、気が抜けたせいで“識者の叡智”を手放してしまう。反射的に手を伸ばそうとして、零余は止めた。地面に落ちていく“識者の叡智”を、寸前で伸びた手が受け止める。
「カティさん……」
“識者の叡智”を両手で支え、カティは少しだけ落ちついた様子を見せる。その目は不安そうに揺れながらも、先ほどとは違って震えてはいない。手渡されたそれを受け取りながら、零余は大きく息を吸い、半ば無理矢理に安心させるように表情を和らげた。
「ありがとう」
受け取った“識者の叡智”を消し去り、カティへ手を差し伸べる。一瞬、その手を取るかどうか迷ったようだったが、カティは零余の手を取ると、引っ張られるようにして立ち上がった。しかし、未だ緊張が抜け切っていなかったのか、足に力が入らず、零余にしなだれかかるように倒れこんでしまう。
(なんか……今日はこんなんばっかだな……)
倒れこんでくるカティを受け止める。肌で感じる体温は熱く、それが生の実感として流れ込んできた。零余は生きている。カティも生きている。あれほどの脅威を前に、自分たちの命はギリギリのところで繋がっている。
しかし、零余は思い出す。こんなところで自分の命が在ることに安心している場合ではない。今、命の危機に瀕している大切な人がいるのだ。
「椿――ッ!?」
カティをしっかりと立たせ、慌てて零余は荒い息を吐き続ける椿を抱え起こす。血を流しすぎたためにその瞳は不安定に揺れ、焦点が定まっていない。顔は血の気が薄く、青白くなっており、危険な状況であることを一目で分かった。
「椿! しっかりしろ、椿!」
「に……い、さま……。少し、うるさいです」
切れ切れながらも何とか言葉を返し、椿がわずかに頬を綻ばせる。意識を確認できたことに零余は胸を撫で下ろすと、ポケットから携帯を取り出し、救急車を呼ぶために番号を打つ。だが、ボタンを押す手は途中で止まり、悔しげに唇を強く噛んだ。番号は別のボタンを押し、電話に出た相手にこの場所とは少し離れた位置を伝える。
「兄様……どこに、電話を?」
「タクシーを呼んだ。すぐに来てくれるはずだ。傷は学園の知り合いに見てもらおう。それまで耐えられるか?」
「出血事態は……魔術で何とか、抑えられます。ただ……兄様、少し寒い。寒気が、するんです」
「分かった。これでいいか?」
弱音を漏らす椿を強く抱きしめ、零余はその身体を持ち上げる。そのままお姫様抱っこのようにして持ち上げると、急いでその場から離れだした。少し遅れてカティさんも追いかけてくる。事情を一切説明していないため、困惑しているようだった。
「ひ、柊くん、救急車を呼ばないの?」
「呼んで、あの惨状をどう説明する? 警察の事情聴取なんて受けてられない。万が一にでもエドガーを警戒させるようなことはできない」
「でも、早くしないと椿が――」
「大丈夫だ。知り合いに治癒能力を持った人がいる。能力だけならそこらの医者よりずっと信頼できる。だから、学園に急いでる。カティさんも来てくれ。コロッセオでの試合を想定してたんなら、出血を抑える魔術ぐらいは覚えてるだろ? 一つ一つは小さいが、傷口が多すぎる。今の状態の椿が一人でこれを全部カバーするのは、さすがに辛いはずだ」
「分かった」
この状況で冷静に判断を下す零余に、カティは感心する。さっきエドガーと対峙し、追い払った時もそうだが、この少年には不思議な力強さがあった。最初こそその振る舞いに呆気に取られたが、評価を百八十度変えるには十分な強さだ。
そんなカティの思いとは裏腹に、零余は決して冷静でなどではなかった。端から見れば確かに事態を冷静に見ているようにも思えるが、零余自身がそんな自分を否定している。真に椿を救いたいのであれば、何より救急車を優先したほうが良いのは明らかだ。ここから学園までは車で三十分以上、対して救急車ならば平均して十分ほどの時間で済む。後は事情を説明し、警察の保護を求めれば良い。いくらエドガーと言えども、警察機関に真っ向から戦えるはずもない。しかし、零余がそれをしなかったのは、ひとえに冷静な判断が下せなかったからだ。最後に向けられたエドガーの殺気が頭にこびり付いて離れない。何をしても殺されると言う想像が、自分たちの命を他人に任せてしまうことを拒否していた。
(俺が倒す……椿の安全のためにも、何としてでも……)
零余は好戦的な性格ではない。戦いなど、できることなら避けて通りたいのが信条だ。それでもこれほどまでに戦う意思を見出したのは、椿を傷つけられ、自分たちの命を危機に晒されているという本能から来る恐怖に他ならない。
住宅地の路地を曲がり、大通りに出たところで呼んでいたタクシーがすでに待機していた。予想以上に早かったが、零余はそれに乗り込むと行き先を伝える。タクシーの運転手は、血塗れの零余たちにギョッとしたようだが、関わり合いになりたくないのか、シートを汚さないでよ、とそれだけを伝えると、何も言わずに車を発進させた。
車窓から流れていく景色を見ながら、傷ついた椿を強く抱きしめ、決意を新たにする。
――エドガー・ブレイズフォードを、何としてでも打ち倒してみせる。




