⑤
「これで一先ずはだいじょーぶ」
フォルセティの敷地内にある学生寮の一室。俺と椿が借りているその部屋で今、ちょうど傷ついた椿の治療が終わったところだった。ほとんど全身にあった針で貫かれたような傷の全ては塞がり、荒かった呼吸は落ち着きを見せ、穏やかな表情で吐息を立てて眠っている。一時はどうなることかと心配したが、椿が頑張りを見せてくれたおかげで何とか一命は取り留めた。椿だけではなく、あの後、意識を失った椿に代わって出血を抑え続けてくれたカティさんや、その治療を行ってくれた目の前の先輩にも感謝しなければならない。
自室のベッドに横たえられ、穏やかな表情で眠る妹の頭をそっと撫でる。先の戦いにおいて、何より一番頑張ってくれたのは間違いなくこの娘だ。満身創痍の状態でも自分の出血を抑えることを無視し、ミュールで俺とカティさんを守り続けてくれた。あのエドガーですら、椿だけは認めていたほどである。
ごめんな……。
声に出さず、謝る。無茶をさせてしまった。無理を通させた。妹を守るのが兄の役目であるのに、完全に自分は守られるばかりだった。情けない思いで一杯だが、後悔ばかりもしていられない。これから俺には、やることがあるのだ。感傷に浸っている場合ではない。
「ゆっくり眠っとけ」
最後にもう一度頭を撫でると、俺の方を無感動に見つめる先輩を連れ、椿の部屋を出る。俺たちの借りている寮は、三人一組で借りるルームシェア型を採用しており、リビングに当たる他の部屋よりも少しだけ大きな一室と、そこを起点とする三つの部屋で出来ている。その部屋の中央部であるリビングでは、現在、カティさんが所在無さげに椅子に座っていた。手持ち無沙汰なのか、俺が出しておいた紅茶のカップの淵を指でなぞり、思い出したように物憂げなため息をつく。治療の邪魔になるからと先輩に言われて外に出てもらっていたのだが、彼女も心配してくれていたのだろう。
部屋から出てきた俺たちを見て、カティさんは慌てた様子で立ち上がる。必死なその姿は、本当に椿を気にかけてくれていたのだと感じるのに十分なものだった。
「柊くん、椿は?」
「だいじょーぶ。わたしがバッチリ直して見せた」
気の抜けた声でOKサインを作ってみせる先輩。その言葉にカティさんはほっと安心したように息を吐く。その姿を横目で見ながら、俺はキッチンに立って紅茶のTパックを取り出すと、それをカップに淹れ始める。注いだ熱湯が淡い紅葉色に染まっていくのを眺めながら、片手で砂糖とミルクを取り出しそれを盆に載せてリビングにあるテーブルの上に運んでいった。それから呆けたように突っ立っている先輩のために椅子を引いて座らせると、どうぞ、と手で促す。先輩はこくりと一度頷き、ミルクと砂糖を大量に突っ込んでから紅茶を啜るも、猫舌だったらしく、すぐにカップを口から離した。ふーふーと今度は息を吹きかけ、再度同じように試みる。今度はどうやら飲めたようだ。
「いや、それにしても先輩。本当に助かりました。先輩がいなかったらどうなっていたことか。ありがとうございます」
先輩の対面、カティさんの隣の席に腰を下ろし、俺は感謝の言葉を口にする。心からのそれだが、先輩の表情に照れや謙遜する様子は見られない。黙って俺の言葉を受け入れ、市販の紅茶を美味いのか不味いのか分からないような無表情で飲み続けている。
読めない、というのが俺の感想だ。前に何度かあったことのある人だが、相変わらず表情は一辺倒で、あまり喋らない。こちらの質問には答えてくれるし、仕事内容に関する事務的なことなら能動的なのだが、それ以外にはほとんど受動的なのだ。しかし、今はそれはどうでもいい。先輩の性格など、その治療の腕を前にすれば気にもならなくなる。それよりも気になるのは、治療後のことだった。
俺はニコニコと先輩を見る。先輩は黙って紅茶を啜り続けている。
やがて紅茶を飲み終えると、先輩はカップを置き、おもむろに口を開いた。
「それで依頼料のことだけど」
「あーっ! そうだ先輩、クッキー! クッキーあるんですよ! 食べます? 食べますよね!?」
本題に入りかけた先輩を制し、俺は大声を出す。唐突なそれに先輩は表情一つ変えず、開きかけた口を閉じると、こくりと頷いた。どうやら先輩はクッキーをご所望のようだ。俺は大急ぎでキッチンに戻ると、数日前に椿が買ってきたクッキーを取り出した。どこかのお店の高いものと聞いていたが、背に腹は変えられない。後で椿にはどやされるだろうが、ここで先輩の満足度を上げておかなければ後で痛い目を見る。
袋詰めになったクッキーを抱え、リビングに戻ると、俺はそれを恭しく先輩様に献上する。先輩はそれを受け取ると、封を切り、中身を取り出して食べ始めた。そのペースは遅いものの、次々とクッキーを頬張っていく。カティさんがその様を羨ましそうに眺めていたが、生憎分けてやれる余裕はない。
俺がそんな風に思っていると、カティさんの視線に気づいたのか、先輩はクッキーを口に運ぶ手を止め、それをカティさんに差し出した。
「たべる?」
「は、はい!」
嬉しそうな声を上げ、カティさんは差し出されたクッキーを受け取る。だが、手を伸ばそうとしたところでその表情が苦悶に歪んだ。
「痛ぅ……」
そう言えば、カティさんも浅い傷だがエドガーに攻撃されていたはずだ。決して命に関わるようなものではないが、身体を動かす分にはまだ痛むのだろう。
カティさんの怪我に気づいた先輩は、伸ばされたカティさんの腕にクッキーを渡すと、同時にその手を取る。呆気に取られるカティさんだが、次の瞬間にはそれが驚きの表情に変わった。先輩からカティさんの方に、魔力の光が薄く現れている。椿を治療していたときにも見せてもらった治癒の光だ。
「これでだいじょーぶ。セルフだから安心して」
い、いいなぁ、セルフいいなぁ。
「あ、ありがとうございます」
言いながら、カティさんはパクリとクッキーを食べ、その頬が途端に緩んだ。さっきまで多少なりとも真剣な表情をしていたが、クッキーの美味さに一瞬にしてそれは消え去る。そんなカティさんへ向け、先輩はクッキーをもう一枚差し出していた。それをもう一度受け取り、再度カティさんは美味そうな笑顔を浮かべる。
なんだか、仲睦まじい光景である。先輩も心なしか楽しそうだ。これなら依頼料の件は――
「それでひーらぎ、依頼料のことだけど」
「ですよねー」
うん、分かってたとも。こんなおもてなししたからって依頼料の件を有耶無耶に出来るなんて思っちゃいないさ。だけどね、何かをしてみたいものなんです。足掻いてみたいものなんです。だって俺、今金欠なんだもの。カティさんにだって新しいハンカチを買って返さないといけないし、そんな中で先輩の要求する学生の小遣いレベルを軽く上回ったような金額を払えるわけがない。
どんよりとした気分を抱え、絶望的な戦況で戦いを余儀なくされた兵士のような気分のまま、俺は先輩との交渉の席に着く。そのある種異様な雰囲気に当てられ、カティさんは少しだけ俺たちと距離を取った。せめて傍にいてほしい。
「あの子の怪我と、治療に使ったわたしの魔力消費量、受付時間外での治療であるということから計算して――ザッとこの程度かな」
先輩が電卓を取り出し、大まかな計算で料金を表示してみせる。そこにある金額を目にし、俺は瞼を擦った。それから天井を見上げ、もう一度見る。金額は変わらず、予想を上回る額が表示されていた。
ふぅ、と俺は息を吐く。ちっちっちと指を振り、先輩に堂々と言ってのけた。
「ごめんなさい、払えませんっ!!」
いやほんと、無理っす。これは無理っす。
「知ってた」
何の気なしにそう言うと、先輩は電卓を叩き直し始める。さすがに考え直してくれたのだろうか、と俺が期待していると、予想を越えてそこには少なくなった数字が現れていた。ちょうど六で割ったような値になっている。さすがにこれは値下がりが過ぎるのではないだろうか。いや、優しい先輩のことだ。ここは俺に対して温情を見せてくれたのだろう。
「ちょうど半年払い。毎月徴収するから」
「……………………」
いやぁ、徹底してるなぁ。先輩は徹底してるなぁ。
俺はシクシクと悲しみの涙を流し、先輩の取り出した契約書にサインする。それを先輩は懐に納めると、俺が払った一か月分の支払いを受け取り、ついでに残りのクッキーも持って我が家を後にする。
椿を家に連れ帰り、先輩が治療を行って三時間。先輩は疲れ一つ見せていないが、あれほどの長時間に渡って魔術を使い続けたのだ。その疲労も相当なものだろう。それにそろそろ外も暗くなってきている。このまま一人で帰すには少しばかり気が引けた。
カティさんに断りを入れ、俺は玄関に向かった先輩を追いかけると、その背中に声をかける。
「先輩、送りますよ」
呼びかけに、先輩はゆっくりとこちらを向く。まだクッキーを食べているらしく、口元にクッキーの屑が付いていた。
「いい。それよりちゅーこく」
「忠告?」
まさか椿に関することだろうか、と俺は少し身構えてしまう。一命を取り留めたとはいえ、かなりの出血量だ。もしかしたら、何か後遺症のようなものでものあるのかもしれない。
妹の容態を心配する俺とは裏腹に、先輩の表情はいつもと変わらず、クッキーを絶えず食べ続けている。喋るか食べるかのどちらかにして欲しいところだが、言ったら食べるほうを優先しそうなので黙っておいた。
「あの傷、見覚えがある。エドガー・ブレイズフォードだね」
先輩の口からその名前が飛び出したことに驚く。それが表情に出ていたのだろう。やっぱり、と先輩は呟き、クッキーを口に運ぶ手を止めた。それから俺に近づき、観察するように眺め回すと、無造作に手を伸ばして身体中をペタペタと触れてくる。唐突なその行動に俺がどうすればいいのか反応に困っていると、先輩は不思議そうに首を傾げた。
「あいつに付けられた傷はないみたい。ただ、打撲や殴打の痕が見られる」
服の上から触れただけでそこまで分かるのか。まるで一流の医者さながらの技術だ。それだけではなく、先の口ぶりから見ると、傷である程度、誰によるものかも判断できてしまうようだ。
「ひーらぎたちの事情に口を挟むつもりはないけど、エドガーには気をつけた方がいい。あいつは、危険。昨日もあいつと決闘して同じ傷を付けられた学生が医務室に運ばれてきた」
「……そう言えば、先輩は保険委員でしたね」
昨日見たエドガーの決闘の対戦相手だろう。どうやら保険委員である先輩が治療を担当したらしい。口ぶりから見て最悪の事態は免れたようだが、先輩の些細な様子からかすかな怒りが見て取れることを思えば、なまじ無事な様子でもなかったのだろう。
「忠告って言うのは、エドガーに関してのことですか?」
「ううん、違う。わたしが言いたいのは、あの赤髪の子を気にかけてあげて、ってこと。何があったかは知らないけど、あの子、あいつの妹でしょ? なのにあの子の身体には、そのエドガーに付けられた傷があった。わたしを心配する男気は、あの子に向けてあげて。怪我は治せても、心の傷はそう治らないから」
「先輩……」
カティさんの傷がエドガーによるものだと触れもせずに気づいていたのもそうだが、それ以上に驚いたのは先輩の饒舌っぷりだ。カティさんとは初対面のはずだが、こんな風に心配するようなことを口にするとは、先輩は中々のお人よしと言わざるを得ない。まぁ、カティさんをセルフで治してあげていることからもそれは分かろうものだが。
「あと、一ヵ月後にちゃんと払わなかったから徴収を二倍にするから」
最後にそれだけを言い置いて、先輩は淡々と去っていく。照れ隠しなのは何となく分かったが、先輩のその言葉は正直に言って心臓に悪い。
先輩が去っていくのを見届けてからドアの鍵を閉め、俺はカティさんの待つリビングへ戻る。




