第九章 帳簿は嘘をつかない
朝、リラエは寝台で目を覚ました。頬の斑点は、夜のうちに少し薄くなっていた。一晩中、低濃度の抽出液を少量ずつ含ませた効果だ。
「樹さん、寝てない、ですよね」
「平気です。普段から、夜型なので」
彼女は浅く笑い、また目を閉じた。
彼女を一人にしたくなかったが、確かめたいことがあった。
王都の中央、抽出大聖堂の地下にあるはずの〈宮廷抽出記録庫〉。歴代の宮廷抽出師たちが残した、すべての抽出データが保管されている場所だ。
バルデスから存在を聞かされていた。
「私の名前で、入れる手筈は整えてある。だが、見つかれば、ただでは済まん」
彼は塔から持参した古い銀のメダルを、俺の手に握らせた。
午後、抽出大聖堂の裏手から、地下へ続く階段を下りた。壁は石造り、空気は乾き、紙の匂いがした。
地下三階。
巨大な書庫だった。天井まで届く本棚が何百と並び、すべてに年代別の抽出記録が綴じられていた。
司書は、白髪の老人だ。バルデスのメダルを見せると、彼は黙って奥の閲覧室へ案内した。
「閲覧時間は、二刻」
彼が出ていったあと、棚の前に立った。
最も古い記録は三百年以上前。一冊ずつページをめくり、変数を確認していく。
最初の二百年は、まともだった。圧、温度、時間、比率。すべてゴールデンカップ・レンジの中。EY値も、十八から二十二の間に収まっていた。
ある時期から、記録がおかしくなる。
約百二十年前。〈第一波の改革〉と銘打たれたその年から、数値がゆっくりと過抽出側へずれ始めた。EYが二十三、二十四、二十六と、年を追うごとに上がっていく。味の項目には〈濃厚〉〈芳醇〉〈深遠〉といった抽象的な賛辞だけが並ぶようになった。
次々と、自分の手帳に書き写した。ペンを走らせながら、寒気がしてきた。
これは、データの改ざんではない。
もっと悪い。
彼らは、過抽出を〈正しい抽出〉だと、定義し直していた。
正しい味を、誰も知らないからこそ、できた業だった。
最近五十年は、もうひどかった。EY値が二十八、三十を超える日もあった。味の項目には〈神聖〉〈唯一無二〉といった、宗教的な言葉が並ぶ。
最後に、現在の宮廷抽出師――ジョージアの直近五年分の記録を引き出した。EY、平均二十六・八。TDS、平均一・五五。完全な過抽出。
しかも、彼の記録には、抽出後の〈瘴の発生量〉という奇妙な項目があった。それは毎年、わずかに増えていた。
彼は、知っていた。知っていて、続けていた。
ペンを置き、深く息を吐いた。
背後で、足音が止まった。
白髪の司書が、いつのまにか扉のそばに立っていた。目は潤んでいた。
「あなた、ですか」
「何が、ですか」
「これに気づいた最初の、外来者。私は、ここで五十年見てきました。ずっと、誰かが気づいてくれるのを待っていた」
何も言えなかった。
司書は震える指で、俺の手帳のページを指した。
「お持ち帰りなさい。ここの記録は、もうじき燃やされる予定です」
「燃やされる」
「ジョージア卿の命令です。今夜、以後、もう」
書き写したページの束を、上着の内側に隠した。立ち上がろうとしたその時、地下に足音が響いた。大勢の、兵士の靴音。
司書が俺を奥の通路に押しやった。
「裏口から。早く」
走った。書庫の壁を抜け、狭い回廊を、右へ左へと曲がりながら、走り続けた。背後で、誰かの叫び声が聞こえた。司書の声だったかもしれない。
戻れなかった。




