第十章 第三波の記録者たち
地下から這い上がった俺は、王都の下水街に逃げ込んだ。
メリンディアの下水は、迷路だった。地上の華やかさとは別世界の、湿った石壁、苔、時折流れる泥水。鼻の奥に、酸化した鉄と腐った植物の匂いが沈んだ。
奥の暗がりに、バルデスがいた。
「やはり来たか。司書から伝言があった。〈樹は無事に逃げた、だが私は、もう書庫には戻れない〉と」
「司書は」
「捕まったろう。だが、彼は自分の役目を、最後に果たした」
彼は暗い壁にもたれ、しばらく目を閉じた。
「私はな、三十年前、宮廷抽出師の見習いだった。あの頃から、もう過抽出の流派が主流だった。私はそれに気づき、若さに任せて声を上げた。〈数値が間違っている〉と」
「それで」
「即日、追放された。家族は、〈異端の身内〉として王都を追われた。妻は数年で死んだ。息子は行方知れずだ」
声に特別な悲しみはなかった。長い間繰り返してきた事実を、また繰り返しているだけ、というような調子だった。
彼が三十年、ひとりで持ち続けてきた沈黙の上に、俺が立っていることを、初めて実感した。
「バルデスさん」
「ん」
「俺は、お孫さんになれませんが」
「弟子で、十分だ」
彼は初めて、まともな笑みを見せた。歯の数が一本足りないことに、その時気づいた。
上着の内ポケットから、書き写した記録の束を出した。バルデスはそれを、長い間、無言で見た。
「これだけあれば、なんとかなる」
「裁判で、ですか」
「いや。裁判では勝てない。王と教会と魔導院は、ジョージアの後ろ盾だ。だが、これがあれば、瘴の発生源を特定できる」
彼は地図を広げた。大陸全土の地脈の図だ。中央に王都メリンディア、そこから放射状に魔脈が伸びている。各地の魔脈の瘴の濃度が、色で示されていた。
「ここに、〈カルナの心臓〉と呼ばれる山がある。大陸の魔脈の源流だ」
「そこで」
「最終的な抽出をやり直す。三百年分の過抽出を、希釈し、本来の抽出値に戻す」
地図を見つめた。山の位置、距離、標高。不可能な数字が並んでいた。だが、不可能だ、とは思わなかった。
ただ、変数を一つひとつ合わせれば、いい。
「彼女は」
「すでに、知らせは送ってある。仲間が、彼女を密かに連れ出している。三日後、ここに合流する手筈だ」
ほっとした息を吐いた直後、別の不安が湧いた。もし、ジョージアが彼女に手を出したら。
あの男は、自分のメンツを潰された相手に、必ず報復する。城島が、そうだった。
立ち上がった。
「行きます」
「どこへ」
「リラエを迎えに」
「樹、無理だ。今夜、王都の門は」
俺の言葉を遮るように、地下道の入り口で、足音が響いた。
兵士の。しかも、複数。
バルデスが舌打ちした。
「もう、見つかったか」
奥の通路から、もう一つの足音が近づいてきた。ローブを翻す音。
地下水の流れる音と、その足音が、混ざる。下水の壁の内側に、誰かが石で何かを叩いた跡が、規則的な間隔で並んでいた。何百年も前、ここで誰かが何かを数えていた跡だった。
バルデスはそのうちの一つを、指の腹でなぞった。
「これ、リラエの兄が、子供の頃に、刻んだ印だ」
「リラエの、兄」
「奴は、レジスタンスの初期メンバーだった。十年前、王都から、消された」
バルデスの目は、暗がりの中で、わずかに、湿っていた。
「リラエはそれを知らない。私も、教えていない。教えれば、彼女は、書く力を失う」
「はい」
「お前の手帳と、リラエの手帳と、彼女の兄の壁の傷と、全部、繋がっている」
「うん」
「お前は、ひとりで来たわけじゃない。三百年分の、書く人たちが、お前を、ここまで、運んできた」
その言葉に、答えなかった。代わりに、内ポケットの手帳を、もう一度確かめた。
ジョージアの声がした。
「樹くん。逃げないでくれよ。話したいだけだ」
手帳を、固く握りしめた。




