第十一章 ノートを焼かれる
ジョージアは護衛を引き連れて、下水道の暗がりに現れた。手に燃え盛る松明。ローブの裾が、汚水で汚れることを厭わずに、無造作に泥に浸かった。
「樹くん。見つけたよ」
声は、まるで散歩仲間に呼びかけるような軽さだった。その軽さが、ぞっとするほど城島と同じだった。
隣でバルデスが姿勢を低くした。
「逃げ道は奥にある。お前は走れ」
「あなたは」
「私はここで時間を稼ぐ」
「だめです」
「樹。お前が持っているものは、私が三十年取り戻せなかったものだ。お前が逃げる方が、合理的だ」
ジョージアが、ゆっくりと近づいてきた。松明の光が、彼の頬を橙色に照らした。
「樹くん。きみが書庫から持ち出したもの、返してくれないか」
「何のことですか」
「とぼけるなよ。司書が白状したよ。ちなみに、もう生きていない」
奥歯を強く噛んだ。
「ああ、悪い悪い、責めてるんじゃない。彼は年寄りだったし、ただの事故だ」
彼は両手を広げた。
「俺はね、樹くん。きみと争いたくない。きみのその五年分の記録、本当によく書けている。俺なら、もっと有効に使える。共同研究、というのはどうかな」
「お断りします」
「即答か。そう来ると思った」
彼が指を一振りすると、俺とバルデスの周囲に、青白い光の輪が現れた。拘束魔法、というやつらしかった。
身体が、動かない。
それでも、内ポケットの手帳だけは、何とか出そうとした。だがジョージアの方が早かった。彼は俺の襟首を掴み、内ポケットから、五年分の記録帳と、書庫から書き写した束を、まとめて引き抜いた。
「これか」
「返してください」
「返せるわけがないだろう。これがあれば、きみは、本当に世界を救ってしまう」
彼は、松明の炎に、それらをかざした。
息が、止まりそうになった。
彼の指が、黒い革表紙の手帳を、ゆっくりひらいた。
最初のページ。俺が二十三歳の時、初めて店に入った日の最初のショットの記録。
「TDS、一・〇九。ぬるくなっていた、というたどたどしい字体だな。樹くん、若いな」
彼はぱらぱらとページをめくった。一日も、空白がなかった。日付と変数と、客の感想と、たまに、誰にも見せない一行の独り言。
ジョージアはそれを呆れたように眺めた。
「五年か。よく続いたな。だが結局のところ、これはきみの自己満足の記録だ。誰も読まない。誰の役にも立たない」
「それは」
「いや、いいんだ。誰だって、何かにしがみつきたい。生きていくのは、しんどいからな」
彼は手帳を松明にかざした。炎が革に触れ、表紙の縫い目が、焦げ始めた。
「やめろ」
俺は初めて、声を荒げた。拘束魔法の輪が軋んだ。
ジョージアはそれを面白そうに見た。
「お、本気でやめさせたいのか。じゃあ、ひとつ条件だ。俺の前で、〈ジョージア閣下、私は何者でもありません、お赦しください〉と、跪いて言ってくれ。そうしたら、これは返す」
口を開けなかった。言えば、彼が本当に返すとは思えなかった。
たとえ返ったとしても、その手帳は、もう俺の手帳ではない。
彼は、嘘をついている時の城島の顔をしていた。
俺の沈黙を、ジョージアは笑った。
「これだから、職人は」
手帳を、炎に放った。
革がめくれ上がるように燃えた。五年分の夜のページが、一気に橙色になり、それから灰になった。
書庫の写しも、続いて、炎の中に消えた。
全部、消えた。
俺の何かが、灰の上で、ゆっくりと白くなって、崩れた。
その時。
暗がりの奥から、誰かが小さな足音で近づいてきた。リラエだった。仲間に連れ出されたはずの彼女が、なぜか、一人で。
頬の斑点を、もう隠していなかった。
「ジョージア卿」
声は、震えていなかった。
「あら、可愛いお嬢さん。きみは誰だっけ」
「リラエ・サフォール。蔵書塔の写本係です」
「ああ、地下三階の。覚えてないな、すまんね」
彼女は構わず、彼の前に進み出た。
「あなたは、数字が読めない」
「は」
「読めるけれど、読まない。それは、読めないのと同じです」
ジョージアの顔が、初めて引き攣った。
次の瞬間、彼の指から、青黒い光の球が放たれた。まっすぐ、リラエに向かって。
叫んだ。拘束の輪が軋み、外れた。
でも、間に合わなかった。
俺の身体が彼女の前に回り込もうとした、その瞬間。
彼女は、自分から進み出ていた。
光の球が、彼女の胸に当たった。
彼女は、声を立てなかった。
崩れ落ちる体を、両腕で受け止めた。
ジョージアはそれを、しばらく無表情に見ていた。それから軽く舌打ちをした。
「面倒だな。撤収する。この件は、また機会を改めよう」
彼は護衛を連れて、暗がりの奥に消えた。
炎の音だけが、しばらく続いた。
腕の中で、リラエが咳をした。血が混じっていた。
だが、彼女は薄く笑った。
「樹さん」
「喋らないで」
「ごめんね、私のメモ……読んでくれる」
彼女はローブの内側から、小さな手帳を取り出した。粗い紙の束。
「これ、私の十一年分です。あなたの五年分には敵わないけど、ふたつ合わせれば、たぶん足りる」
両手で受け取った。手のひらが熱かった。
彼女が目を閉じた。息は、まだある。でも、長くない。




