第十二章 闇夜
俺たちは、下水街の最奥にある、レジスタンスの隠れ家に逃げ込んだ。
石壁の小さな部屋に、藁の寝台が三つ、蝋燭一本、鍋ひとつ。
リラエを奥の寝台に寝かせた。頬の黒い斑点は、もう首筋まで広がっていた。
口元にぬるい水を含ませると、彼女は少しだけ嚥下した。
バルデスは別室でレジスタンスのまとめ役と話していた。
俺は枕元に、一人で座った。暖炉の薄い火だけが揺れている。
両手のひらを見ていた。空っぽだった。
手帳も、書庫の写しも、燃えてしまった。
もう、何もない。
五年かけて積み上げたものが、一夜で灰になった。
残ったのは、灰の匂いと、彼女のあの言葉だけ。
「読めるけれど、読まない。それは、読めないのと同じです」
ふと、自分の問いを、自分に向けた。
俺は五年間、誰のために書いていたのだろう。
夜中、一人でカウンターに残って、TDS値を測り、ペーパーに数字を並べた。誰に見せたかったのか。オーナーには見せなかった。城島には見せなかった。客には見せなかった。
でも、心のどこかで、いつか誰かが見つけてくれるんじゃないか、と待っていた。
その「いつか」と「誰か」を、ずっと自分の上に置いていた。
その期待は、誰にも応えられないまま、灰になった。
長い時間、ぼうっとしていた。時計はないが、もう真夜中をはるかに過ぎていただろう。
ふと、暖炉の鍋の前に、誰かが置き忘れた銅のミルクピッチャーがあった。覚星石の粉と焙煎した豆が、別の小袋に分けて置かれている。隠れ家の備品として、誰かが用意していたらしい。
ピッチャーの前に、ゆっくり座った。
手が自然に動いた。
石臼を回し、豆を挽いた。粒度を、指の腹で確かめる。湯を沸かす。
いつも通りの動作。
誰のためでもない。淹れたかった。今、自分の手を、もう一度自分のものに戻したかった。
覚星石を布で漉し、粉をドリッパーに敷く。湯を細く垂らした。
一滴目。粉が、息を吐くように膨らんだ。
ブルーミング。蒸らしの三十秒。
その三十秒を、ずっと見つめていた。
そして気づいた。
俺の身体は、覚えていた。
粒度の手応えも、湯の落ち方も、豆の鮮度の匂いも。
五年分の数字は、紙に書いてあったのではない。
俺の指の、骨の奥に書いてあった。誰にも、燃やせない場所に。
ゆっくり息を吐いた。
俺は認められたかったんじゃない。
ちゃんと淹れたかっただけだ。
ようやく、自分の口で、自分に向かって、言えた。
残りの湯を、二回に分けて落とす。琥珀色の液体ができた。
それをリラエの唇に含ませた。
彼女が薄く目を開けた。
「……いい、匂い」
「リラエ」
「樹、さん」
彼女の声は、糸のように細かった。
「あなたの、淹れ方、好きです」
「もっと飲んで」
「うん」
彼女がもう一口含むと、頬の黒い斑点が、ほんの少しだけ灰色に戻った。
まだ、危険な状態だ。
でも、息が規則的になった。
彼女の手を握った。手のひらが、まだ冷たかった。これから、温かくなっていくはずだった。
心の中で決めた。
彼女を生かす。そのために、できることは全部やる。
手帳はもう、ない。
でも、俺の指の中に、彼女の手帳と、もう一つ、自分の指の記憶がある。
それで足りる。
夜が、ゆっくりと明け始めていた。窓の隙間から薄い藍色が差し込み、蝋燭の橙と混ざった。
その色を、長く忘れないだろうと思った。




