第十三章 蒸らしの音
朝、バルデスが部屋に入ってきた。俺の顔を一目見て、何かを察したらしかった。
「樹、お前」
「やります」
「やる、とは」
「カルナの心臓に行きます。三百年分の過抽出を、希釈し直す。本来の抽出値に戻します」
バルデスはしばらく黙り、それから深く頷いた。
「準備に三日要る。仲間を集める。だが、ジョージアも、もう動いている」
「彼は、何を」
「奴はお前を恐れている。だから、先に〈最終抽出〉をやる気だ。お前が来る前に、自分の流派の方法で、大陸を〈完成させる〉つもりだ」
「最大圧、最高温度、最大時間で」
「そうだ。奴のやり方なら、大陸は過抽出の極致になる。瘴は、もはや回復不能なほど濃くなる」
リラエの寝台を見た。彼女はまだ眠っている。頬の斑点は、昨夜より少し薄い。
ゆっくり息を吐いた。
「変数を教えてください。カルナの心臓の規模、地脈の数、覚星石の埋蔵量、推定温度、必要時間」
バルデスは地図を広げ、もう一冊の古い本を取り出した。卓を囲み、計算を始めた。
大陸全体を、一つの巨大な抽出器、と捉え直す。
原料は、地脈に流れる魔素。媒介は、覚星石。容器は、大陸そのもの。
ブルーミング――蒸らしの工程。
ふと、笑った。
「何がおかしい」
「いや。ハンドドリップ二百四十グラムを、大陸サイズに引き伸ばすだけだ、と思って」
「同じだ、と」
「同じです」
彼は長く目を閉じた。
「……お前のような者を、私は待っていた」
夜まで、計算を続けた。必要な変数は、十二。各拠点に、覚星石の純度を計測する仲間を配置する必要がある。水脈の温度を上下調整する魔導具が要る。時間を計る巨大な砂時計が要る。粒度――つまり覚星石の粉砕度合を、各地点で瞬時に変える指示系統が要る。
その全てを、俺一人で、現場から指示する。
不可能ではない。一発で合わせる必要があるというだけだ。
もう、紙の手帳はない。
でも、リラエの手帳と、自分の身体に染み付いた感覚と、バルデスの古典書と、レジスタンスの仲間たちの手と。集めれば、足りる。
夜、リラエの寝台のそばで、もう一度ゆっくり息を吐いた。
彼女は目を開けていた。今夜は、少しだけ力のある眼差しだった。
「樹さん」
「はい」
「私、行ける、と思います」
「無理はしないで」
「無理じゃないです。私、ずっと〈本当の抽出〉を見たかった。十一年、地下で」
彼女の指が、俺の手を弱く握った。
「連れていって、ください」
頷いた。
彼女を置いていけない、とは思わなかった。
彼女が来たい、と言うなら、来てもらう。
それが、彼女が十一年待った、答えだ。
夜更けに、レジスタンスの仲間が三人、扉を叩いた。それぞれ、別の地方から来た、地脈の専門家、覚星石の鉱夫、水脈の魔導士。全員、ジョージアの方法で家族を瘴に奪われた人々だった。
深く礼をした。彼らも、深く礼をした。
言葉は要らなかった。
次の朝、俺たちは王都を密かに出た。
目的地は、大陸の中心。カルナの心臓。
空に、紅の雲が流れていた。
その色を、ジョージアのローブの色だ、と思った。




