第七章 紅の宮廷魔導師
王都の宿舎は、抽出大聖堂に隣接する賓客棟だった。
白大理石の階段、絹の天蓋、銀の燭台。俺の住んでいた六畳のアパートとは、世界の組成が違っていた。冷気の感触までよそよそしい。
通された部屋で、立ったまま手帳を開いていた。書くことは何もなかったが、ペンを握っていると落ち着いた。
扉が叩かれた。
ジョージアが、護衛もつけずに一人で入ってきた。
「失礼するよ、樹くん」
その「樹くん」の発音が、城島のそれと寸分違わなかった。
「閣下」
「やめてくれ。同じ業界の者同士だ」
彼は絹のローブの裾を引きずり、テーブルの椅子に深く腰掛けた。手袋を一本ずつ抜きながら、俺を見る。
「君は、覚えていない、らしい」
「何を、ですか」
「いや。それなら、それでいい」
彼は自分のグラスに勝手にワインを注ぎ、一口含んだ。
「俺はね、樹くん。ずっと前から、きみの仕事を見ていたよ」
心臓の奥が冷たくなった。
「君のダイヤルインは、確かに精密だ。だが、そこには観客がいない。芸術には観客が要る。きみは職人だが、芸術家ではない」
俺はペンを置いた。
「明日、ささやかな披露の場を設けた。〈抽出競技〉だ。王の御前で、二人で一杯ずつを引く」
「結果は」
「決まっているとも。観客は、きらびやかな方を選ぶ。それが世界の摂理だ」
彼は立ち上がり、扉に向かった。途中で振り返った。
「樹くん。一つだけ忠告しておく。きみのその古い手帳、王都には合わない。早めに、捨てた方がいい」
扉が閉まる。
ペンを握り直した。
手帳の真新しいページに、自分でも驚くほどゆっくりと書く。
「明日。十二・五バール。九十二度。粒度は中細から半クリック細目」
覚えるためじゃない。ただ、書きたかった。
その夜、リラエが俺の部屋を訪ねてきた。ろうそくを片手に、薄手の夜着の上にローブを羽織っている。
「樹さん、明日のこと、聞きました」
「もう知れ渡っているんですか」
「王都は、噂が早いんです」
彼女はテーブルの椅子に座り、また少し咳き込んだ。
「ジョージア卿の抽出は、私も何度か見ました」
「どうでしたか」
「派手で、美しい、です」
「でも」
「でも、味は、薄いです。あるいは、過抽出で、舌が痺れる」
彼女は言いにくそうに続けた。
「皆、見た目で判断します。王様も、貴族も、市民も。本当の味なんて、誰も確かめません」
俺は彼女のカップに湯を注いだ。今度はハンドドリップではなく、塔から持ってきた簡易の浸漬器具だ。粒度を粗く、湯温を低めに。彼女の喉に優しいように。
彼女は両手で受け取り、ゆっくり飲んだ。
「樹さん」
「はい」
「明日、勝てなくても、いいです」
顔を上げて、彼女を見た。
「王様が選ぶのは、ジョージア卿でしょう。それは覆りません。でも、本当に味のわかる人は、必ず、樹さんのカップを覚えます」
「俺は、勝つために抽出するんじゃないですよ」
「知ってます」
彼女は空のカップを両手で包んだ。
「だから、私は樹さんの後ろに、ずっといます」
その言葉を、長く忘れないだろうと思った。
窓の外で、王都の鐘が九つ鳴った。
彼女が部屋を出ていったあと、ペンを握り、彼女の名前を書いてみた。
リラエ・サフォール。
書いて、消した。書いて、また消した。
最後は書かないままにして、手帳を閉じた。
窓の外の塔の灯火が、瘴のせいで滲んだ朱色に揺れていた。




