第六章 Bストーリーの蕾
王都までは、馬車で六日かかる。
俺は荷台で、リラエとバルデスと並んで揺られていた。リラエは付き添いを自分から申し出た。
「私は、王都を離れて、もう三年です。久しぶりに、戻ります」
戻りたくない、という気配が、語尾の奥に薄くまじっていた。彼女は座面の縁を握る指の力を、たぶん自分でも測れていなかった。
道は石畳と未舗装の繰り返し。森を抜け、丘を越え、瘴に侵された村をいくつか通った。村では皆が顔を布で覆い、息を浅くしていた。
通り過ぎる風景を、手帳の隅に書き留める。被害の程度、瘴の濃度、風向き。
「樹さん、それ、何のために」
「ただ、書いてるだけです」
「何の役に立つかも、わからずに」
「わからないから、書きます」
彼女は何度か頷き、それから笑った。
「私も、ずっとそうでした」
二日目の宿、夜遅くまで話した。
彼女は王都の蔵書塔で十一年を過ごしてきた。古代の抽出記録を写本する仕事だ。誰にも読まれず、誰にも評価されない、地下三階のろうそくの灯りの下で。
名前を呼ばれない日々が、十一年続いた。
「樹さんが手帳をくれた時、私、初めて、見つけてもらえた気がしました」
俺は何かを答えようとして、口を閉じた。
代わりに、テーブルのカップに、もう一杯湯を注いだ。彼女は受け取る指先が、わずかに震えていた。寒さのせいだと、その時は思った。
四日目、平原を渡る最中、リラエが軽く咳き込んだ。風邪に見えた。
だが、彼女の手のひらに、薄い灰色の斑点が浮いていた。目が合うと、彼女はすぐに手を引っ込めた。
「大丈夫、です」
「大丈夫じゃない」
「樹さん、お願いだから、今は、何も訊かないで。王都に着くまでは」
訊けなかった。
夜、彼女が眠った後、手帳の隅に小さく書いた。「リラエ・症状確認・初期段階・要調査」
ペンを置き、毛布から覗く彼女の頬の輪郭を、少し長く眺めた。
六日目の夕刻、王都メリンディアの城門をくぐった。
巨大な石壁、尖塔、中央に七つの塔を持つ抽出大聖堂。そそり立つ石の輪郭は、写真集で見たどんな建築にも似ていなかった。
馬車が止まり、降りた俺の前に、深紅のローブを着た男が立っていた。
息が、奪われた。
顔の角度。肩のラインの傲慢さ。唇の歪んだ笑み。
すべて、城島だった。
いや、違うのかもしれない。彼の名は、ジョージア。
でも瞳が俺を見た瞬間、彼の表情が、ほんの一瞬、揺れた。
「貴公が、〈異邦の抽出師〉か」
声は低く響いた。
「高瀬樹、と申します」
ジョージアの口元が、緩んだ。
「樹、か。良い名だ」
目の奥に、確かに見覚えのある嫌な光があった。




