第四章 灰色の手記
塔に戻ると、バルデスは奥の書架へ俺を連れていった。
羊皮紙の本だ。背の革は乾ききって、めくるたびに乾いた粉が指についた。〈灰色の手記〉と彼は呼んだ。
最初のページに、図があった。
漏斗。湯の注ぎ方の角度。粉の蒸らし方。湯温の測り方。書き手は、手にした水の温度を肌感覚で測る方法を、何百年も前に紙に残していた。
俺は黒革の手帳をテーブルに置き、自分の図と並べた。
寸分違わなかった。
「お前は、何者だと思う」
バルデスの声は静かだった。
「ただの、店員ですよ」
「いや。お前は、私たちが三百年探していた、〈第三波の記録者〉だ」
その夜、もう一人、塔へ上がる足音があった。靴底が石を擦る、慎重な歩み。
扉が開き、痩せた女が立っていた。濡れた髪を肩で揃え、灰色の瞳。肌は紙のように白く、唇に血の気がない。
「リラエ・サフォール」
彼女は名乗ると、深く一礼した。
「学派の末席にいる者です。バルデス様の旧弟子で、〈抽出魔術〉復元の研究をしています」
俺は、礼に応えるべきか分からず、軽く頭を下げた。
彼女の視線がテーブルの上の俺の手帳で止まり、長い間、動かなかった。指で表紙の縫い目をなぞる手つきが、誰かが鏡を覗き込むときの慎重さに似ていた。
「これは……五年分、ですか」
「五年と二か月です」
「毎日」
「毎日、です」
彼女は息を吐き、目を閉じた。頬を、一筋、涙が伝った。
「私も、こういうものを書いていました。十一年、誰にも見せず」
ローブの内側から、小さな帳面を出した。俺の手帳より一回り小さく、紙質も粗い。だが、書かれている記号と図の構造は、確かに同じ系譜にあった。
俺は二冊を並べてテーブルに置いた。
二冊が、同じ秘密を分かち合っているように、静かにそこにあった。
「お二人」バルデスが咳払いをした。「明日、王都から使者が来る。お前が瘴を浄化したという話は、もう広まっている」
「俺は、まだ何も決めてません」
「決めるのはお前だ。ただ、決める前に、もう一つ見てほしいものがある」
彼は地下室の鍵を取り出した。
階段の先に、巨大な瓶が並んでいた。中に瘴に侵された生豆が何百と保管されている。
「ここは、私が三十年集めた標本だ。すべて、宮廷の抽出師たちが〈処理し終えた〉と公式に記録した豆だ」
彼は一粒を取り上げ、布で擦った。布に黒い汚れが染みた。
「処理されていない。表面を磨いて見栄えだけ整えてある」
一粒を手のひらで潰してみた。中は、ぼろぼろに腐っていた。
「これを、皆が飲んでいるんですか」
「そうだ。三百年、毎日少しずつ。瘴がじわじわ広がるのは天災ではない。人災だ」
背筋が冷たくなった。子供の頬の黒い斑点を思い出した。あれは病気じゃない。毒だった。コーヒーで言うなら、過抽出の極みだ。
「直せます」
言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
「順を追って、変数を一つずつ合わせれば」
バルデスが深く頷いた。
地下の瓶のひとつが、俺の声に呼応するように、微かに震えた気がした。
その夜、リラエは塔の薄い寝台で眠った。窓の隙間から差し込む月の光が、彼女の頬の輪郭を細く照らしていた。咳が一度、二度、毛布の中で潰された。
俺は二冊の手帳を、テーブルの上で並べたまま、長く眺めていた。
二冊だけ、ここにいた。
それで、もう十分のように思えた。




