第三章 異邦の抽出師
しばらくベッドの上で動けなかった。
ベッドというより、藁を布で包んだ寝台だ。窓は鎧戸で、隙間から差し込む光が朝のものか夕方のものか判別できない。
老人――バルデスと名乗った――が、木のコップで水を運んできた。土の混じったような匂いの水だ。喉が乾いていることに、ようやく気づいた。
「ここはイェリオン大陸、王国の北、〈蒼の塔〉と呼ばれる旧研究所だ。私はバルデス。元宮廷抽出師。今は隠遁者だ」
「抽出師」
その語に、バルデスの目が一瞬鋭くなった。
「驚かんのか。〈抽出〉という言葉に」
「いえ、それは……俺の仕事の、専門用語ですから」
彼は長く息を吐き、それから笑った。乾いた、林の落ち葉のような笑い方だった。
「やはりな」
外で、子供の悲鳴が上がった。
塔を出ると、麓に村があった。木造と石組みの家が低く並び、井戸を中心に円を描いている。中世ヨーロッパの絵本で見たような風景だが、空気の匂いだけは現実だった。乾いた藁、生木の煙、奥のほうに鉄分のような瘴の臭気。
井戸のそばで、八歳ほどの少女が地面に倒れていた。頬と腕に黒い斑点が広がっている。さっき見た瘴気の生豆と、寸分違わない模様。
「瘴に侵されている」バルデスが言った。「もう、長くない」
村人が遠巻きに集まり、誰も近づかない。井戸のそばに木のドリッパーが置かれていた。鉄の漉し器、粗く挽かれた豆、青白い結晶。
「これは」
「焙煎したものだ。〈覚星石〉と煮出すと、瘴を和らげると伝わる。だが、今は誰もうまく抽出できん。やっても気休めだ」
俺はドリッパーを手に取った。粒度が粗すぎる。湯が抜けすぎて、薄い泥水になる粒だ。
「グラインダーは」
「ぐらいんだー、とは」
「豆を挽く道具です」
バルデスは石臼を指した。手で回す原始的なものだ。
仕方ない。石臼を引き寄せ、豆を挽き直す。粒度を中粗から中細へ。湯は別の家から沸騰したばかりのものを借り、少し冷ました。指で湯気の高さを測り、九十度くらいと当たりをつける。
覚星石を布の上で砕き、ドリッパーに敷いた粉と混ぜる。湯を細く落とす。
最初の三十グラム。蒸らし、三十秒。
粉が、息を吐くように膨らんだ。
村人が「おお」と低く声を漏らした。
俺は気にしない。これは俺がいつも見ている景色だ。
残りの湯を、二回に分けて落とす。総量二百四十グラム、比率一対十六。最後の一滴が落ち、琥珀色の液体ができた。布で何度か濾し、子供の口に少しずつ含ませる。
しばらくして、子供の頬の黒い斑点が、薄い灰色に変わった。
そして息が、規則的になった。
誰かが息を呑んだ。
バルデスはその場に膝をついていた。
「同じだ……古代の絵図と、お前の手の動きが、寸分も違わぬ」
彼の目の縁に、涙のようなものが滲んでいた。
意味はよく分からないまま、俺はカップを見ていた。両手のひらに、まだ熱が残っていた。
ふと、上着のポケットに固い感触があった。手を入れると、革の手帳が出てきた。黒い、擦り切れた、A5サイズ。
五年分の俺の数字が、そっくりそのまま、ここまで連れてこられていた。
最初のページを、ゆっくり開いた。一日目の、TDS、一・〇九。たどたどしい字。あの日、初めてマシンに触れた、二十三歳の俺の指が、ここまで、付いてきていた。
手帳を閉じ、両手で握った。革の手触りに、汗が残っていた。
俺の身体は、まだ煙の匂いを覚えていた。あの店の、白い蒸気の音、ガスケットの破裂音、左頬のひりつき。けれど、両手を見ると、火傷のあとは、ほとんど、消えていた。
ここに来る間に、何かが、洗われた、ということなのかもしれない。
バルデスは俺の手の中の手帳を、見ていた。
「お前のその記録、私に、見せてくれるか」
「はい」
「ただし、急がなくていい。一晩、自分のために、抱いて寝なさい」
頷いた。
その夜、塔の寝台で、手帳を胸の上に置いて、目を閉じた。耳の奥で、いつもの深夜のカウンターの音が、まだ鳴り続けていた。湯を捨てる音、タイマーの音、ペンが紙を撫でる音。
その音が、ここでも、消えていない、ということが、不思議と心強かった。




