第二章 最後のショット
翌朝、城島は遅刻した。
午前七時開店、彼が来たのは八時半。インスタのライブ配信が長引いたらしい。俺はカウンターの裏で、すでに二十人分のショットを引き終えていた。
「悪いな、樹。先に開けといてくれよ」
「城島さん、ガスケットの件ですが」
「ああ、それ、あとでいいって。今日はラテアートの動画撮るんだ。お前、邪魔しないでくれよな」
彼はエプロンを雑に巻き、最初のショットを引いた。グラインダーは前日の俺のセットのまま。彼はダイヤルインをしない。「俺の感覚が一番正確」と言い、譲らない。
九・五秒で液体が落ち始めた。早すぎる。チャネリングだった。
彼はそれをミルクで隠してラテアートの動画にした。スマホの画面の中で、白いハートが綺麗に立ち上がっていた。彼はその動画を撮るためだけに、ショットを毎回別に引き直す。一日に三十杯ぶん近く、廃棄になる。オーナーは見ていない。
俺は黙って、自分のカウンターでハンドドリップに切り替える。粉に湯が触れる音だけが、自分のリズムだった。
午前の客は、半分が常連だった。佐藤さん、看護師。原田さん、近所の銀行員。みな、顔を覚えている。みな、俺の顔を、覚えていない。それでもいい。彼らのカップに丁寧な一杯を渡せる、その作業の繰り返しが、俺の朝だった。
午前十時。エスプレッソマシンの圧力計の針が、いつもより一目盛り、上がっていた。指で軽く弾くと、ぐらりと針が戻った。気のせいで済む範囲ではなかった。
「城島さん、圧、上がってます」
「樹、お前、なんで朝からそういう小さいこと、ばっか言うわけ」
「小さくない、です」
「俺の動画、邪魔すんな」
彼の語気が、いつもより高かった。撮影が、思い通りにいっていない時の声だった。
諦めて、自分のドリップに戻った。ペーパーの円の上に湯を細く落とす。粉が呼吸する。蒸らし、三十秒。客の前で、誰にも見られないまま、その三十秒だけを大事に、待つ。
昼前、ボイラーから低い振動音が走った。床を伝うほどの音だ。
「城島さん」
「うるせえな、いま忙しいって」
「圧、抜けてます」
彼は振り向きもしない。
蒸気ノブを軽く緩めた。逃がしたかった。ノブを回した瞬間、ガスケットの根元が破裂した。
視界の左半分が、白い蒸気に染まる。
熱い、と感じる前に、何かが弾けた。鋭い金属音が一拍。
次に、無音。
天井を見ていた。
奇妙なことに、痛みはなかった。視界が、ぼうっと白く、それから黒く、それから――別の天井に、変わっていた。
石造りの、古い天井だ。燭台の蝋が、糸を引いて垂れている。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
「来たぞ。ようやく、来たぞ」
しわがれた、年寄りの声だった。
ゆっくり首を傾けると、白い髭、灰色のローブの老人が屈み込んでいた。骨ばった手のひらに、何かが乗っている。
生豆だ。たぶんアラビカ、おそらく古いタイピカ系。だが表面が黒く、細かい亀裂が走り、まるで腐っているように見えた。
老人は震える手で、その豆を俺に差し出した。
「異邦の、抽出師よ」
声は出せなかった。
ただ、思った。
これは過抽出だ。たぶん、極端な。




