表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バリスタが異世界転生したら、異世界で『抽出魔術』の真理に辿り着き、世界を救った話  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/30

第一章 夜のカウンター

二十二時を過ぎた厨房で、湯を捨てる音だけが鳴っている。


 ステンレスの排水溝に落ちた湯が小さく息を吐いて、あとは水の管の奥へ消えていった。


 左手でタイマーを止め、右手でショットを引いたばかりのカップを傾ける。液面で茶色の輪が二回ほど踊り、薄く崩れた。


 TDS、一・二九。EY、一八・七。


 数字は俺の指の関節を温めた。深夜のカウンターでこの数字に出会うとき、ようやく一日の終わりが始まる。


 黒革のA5手帳を開く。表紙の革に鞣しの傷が走り、背の糸が一度ほつれて自分で縫い直したあとがある。今日のページに、いつもの数値を、いつもの順で書く。


 誰にも頼まれていない。誰も読まない。


 ただ、書く動作の最後でペンの腹がページを撫でる感触が好きだった。


「樹くん、まだやってるの」


 オーナーが厨房から首だけ出した。白髪混じりの、声の小さな初老だ。


「明日のダイヤルイン、まだ詰めてるんで」


「城島が、自分のブレンドだって言ってたけど」


「いえ、城島さんが、考えたものですよ」


 オーナーは何か言いかけ、結局首を振り、奥へ戻った。


 彼が消えたあと、エスプレッソマシンの蒸気バルブの根元を覗き込む。ガスケットのゴムが、軽く膨らんでいた。気密が落ちている兆候だ。


 手帳の隅に書く。「ガスケット要交換、明朝一番」


 城島には三度言った。三度ともスマホの画面の青白い光に顔を向けたまま、「あー、わかった、明日やる」で終わった。明日になったら忘れていた。


 まあ、明日こそ言おう。


 もう一杯、誰のためでもないショットを引く。鼻先にシトラスのトップ、奥に黒糖、終わりに紅茶のような渋み。


 完璧だった。完璧であることを、誰にも認めさせる必要は、もうなくなりつつあった。


 戸の鈴が鳴る。


 顔を上げると、栗原さんが入ってきた。三十前後、いつも本を一冊、奥の席に置いて長居する常連だ。今夜の表紙は何かの随筆らしい。


「もう閉店、ですよね」


「あと十五分は」


「なら、いつもの」


 俺は黙って湯を沸かす。


 ゲイシャをハンドドリップ。九十一度、粒度はいつもより半クリック細目に振った。湯が粉に触れた瞬間、粉が息を吐くように膨らむ。蒸らしの三十秒は、客の前でいちばん緊張する三十秒だ。


 最後の一滴が落ちた。彼女の前にカップを置く。


 彼女はカップを両手で包み、香りを長く嗅いでから、小さく一口含んだ。喉が、上下した。


「あなたの淹れる時って、なんでだろう、味が違う気がして」


 答えは出てこなかった。代わりに布巾を握り直し、カウンターの水滴を拭いた。


 彼女はそれだけ言って、本に視線を戻した。


 お世辞だ、と思う。けれど指先がほんの一瞬、ペンを握り直したくなった。


 彼女が帰った後、手帳の隅に書く。「客の感想・栗原様・〈味が違う〉」


 書いて、馬鹿らしくなった。


 書きながら、馬鹿らしくなくもなかった。


 二十三時十二分、店の鍵を閉める。蒸気バルブの音が、心なしか高い。微かに、笛のような音だ。気のせいかもしれない。


 明朝、一番に交換。手帳に二重線で書き直した。


 その夜、夢の中で湯気を吸い込み続けた。喉の奥が、ずっと熱かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ