第一章 夜のカウンター
二十二時を過ぎた厨房で、湯を捨てる音だけが鳴っている。
ステンレスの排水溝に落ちた湯が小さく息を吐いて、あとは水の管の奥へ消えていった。
左手でタイマーを止め、右手でショットを引いたばかりのカップを傾ける。液面で茶色の輪が二回ほど踊り、薄く崩れた。
TDS、一・二九。EY、一八・七。
数字は俺の指の関節を温めた。深夜のカウンターでこの数字に出会うとき、ようやく一日の終わりが始まる。
黒革のA5手帳を開く。表紙の革に鞣しの傷が走り、背の糸が一度ほつれて自分で縫い直したあとがある。今日のページに、いつもの数値を、いつもの順で書く。
誰にも頼まれていない。誰も読まない。
ただ、書く動作の最後でペンの腹がページを撫でる感触が好きだった。
「樹くん、まだやってるの」
オーナーが厨房から首だけ出した。白髪混じりの、声の小さな初老だ。
「明日のダイヤルイン、まだ詰めてるんで」
「城島が、自分のブレンドだって言ってたけど」
「いえ、城島さんが、考えたものですよ」
オーナーは何か言いかけ、結局首を振り、奥へ戻った。
彼が消えたあと、エスプレッソマシンの蒸気バルブの根元を覗き込む。ガスケットのゴムが、軽く膨らんでいた。気密が落ちている兆候だ。
手帳の隅に書く。「ガスケット要交換、明朝一番」
城島には三度言った。三度ともスマホの画面の青白い光に顔を向けたまま、「あー、わかった、明日やる」で終わった。明日になったら忘れていた。
まあ、明日こそ言おう。
もう一杯、誰のためでもないショットを引く。鼻先にシトラスのトップ、奥に黒糖、終わりに紅茶のような渋み。
完璧だった。完璧であることを、誰にも認めさせる必要は、もうなくなりつつあった。
戸の鈴が鳴る。
顔を上げると、栗原さんが入ってきた。三十前後、いつも本を一冊、奥の席に置いて長居する常連だ。今夜の表紙は何かの随筆らしい。
「もう閉店、ですよね」
「あと十五分は」
「なら、いつもの」
俺は黙って湯を沸かす。
ゲイシャをハンドドリップ。九十一度、粒度はいつもより半クリック細目に振った。湯が粉に触れた瞬間、粉が息を吐くように膨らむ。蒸らしの三十秒は、客の前でいちばん緊張する三十秒だ。
最後の一滴が落ちた。彼女の前にカップを置く。
彼女はカップを両手で包み、香りを長く嗅いでから、小さく一口含んだ。喉が、上下した。
「あなたの淹れる時って、なんでだろう、味が違う気がして」
答えは出てこなかった。代わりに布巾を握り直し、カウンターの水滴を拭いた。
彼女はそれだけ言って、本に視線を戻した。
お世辞だ、と思う。けれど指先がほんの一瞬、ペンを握り直したくなった。
彼女が帰った後、手帳の隅に書く。「客の感想・栗原様・〈味が違う〉」
書いて、馬鹿らしくなった。
書きながら、馬鹿らしくなくもなかった。
二十三時十二分、店の鍵を閉める。蒸気バルブの音が、心なしか高い。微かに、笛のような音だ。気のせいかもしれない。
明朝、一番に交換。手帳に二重線で書き直した。
その夜、夢の中で湯気を吸い込み続けた。喉の奥が、ずっと熱かった。




