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バリスタが異世界転生したら、異世界で『抽出魔術』の真理に辿り着き、世界を救った話  作者: もしものべりすと


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第二十九章 もう一度の春

春が来た。〈Bloom〉は、五年目に入った。


 徳田の温室の若木は、もう天井に届きそうなほど育っていた。葉の青味は年々、濃くなっていた。今年の春、徳田は若木を二本別の温室に挿し木した。元の一本では収量が頭打ちだ、と判断したらしい。


「マスター、店で出す豆、もうぜんぶこれに変えてもいけそうですよ」


「いや。月に一度、限定でいい」


「もったいないですよ」


「いや、毎日出したら〈いつもの一杯〉になってしまう」


「いつもの一杯では駄目なんですか」


 しばらく考えて、答えた。


「いつもの一杯になっていい場所と、ならない方がいい場所がある。これは、後者だと思う」


「そう、ですか」


「特別というほどでもない。月に一度、誰かがふと〈今日の豆、何ですか〉と訊いてくれる距離がちょうどいい」


 徳田は頷いた。


 ある春の夕方、栗原さんが二階から降りてきてカウンターに立った。


 彼女の目が、いつもよりわずかに潤んでいた。


「マスター」


「はい」


「私、今度本を出します」


「本」


「ええ。これまで書いたエッセイをまとめて、小さな出版社が出してくれることになりました」


 しばらく何も答えられなかった。


 代わりに、彼女のカップにハンドドリップを淹れた。


 彼女は両手で受け取り、香りを長く嗅いだ。


「マスター」


「はい」


「今日のは、いつもの味なのになんだか違います」


「そう、ですか」


「私の方が変わったからかもしれません」


「いいえ」


 俺は首を振った。


「変わったのは、味の方です」


「私の方ですか」


「いえ。味の、方」


「マスターの抽出が変わった、と」


「俺の抽出も、たぶん変わった。でも、俺の中の何かが変わった」


「何が、ですか」


「あなたが本を出す、ということが嬉しい。それが、たぶんいまの一杯の〇・一を変えた」


 彼女はしばらく俺を見て、頬をゆっくり何かが伝った。


「マスター」


「はい」


「私、本を出します」


「ええ」


「本が出たら、最初の一冊をここに置いていいですか」


「もちろんです」


「献辞のページに、こう書きました」


 彼女は鞄から、出版前の校正刷りを出した。最初のページに、こう書いてあった。


 〈夜のカウンターに、ありがとう〉


 短い、一行。


 俺の名前は、出ていなかった。〈Bloom〉という店名も、出ていなかった。


 ただ〈夜のカウンター〉とだけ、書いてあった。


 それで十分だった。それ以上を書かれていたら、たぶん俺は彼女の本を店に置けなかった。


「ありがとう」


 俺はそれしか言えなかった。


 彼女は笑った。


 その晩、店を閉めて、二階の机に校正刷りを返した。彼女は机の前で、もう一度それを開いて〈夜のカウンター〉という献辞をしばらく見ていた。


「マスター」


「はい」


「私、ここに来ていなかったら書けませんでした」


「いいえ」


「いいえ、ではないです」


「あなたは、もともと書く人でした」


「そうかもしれません。でも、書ける場所が世界のどこにもなかった」


「俺の店でなくても、いつか見つけたはずです」


「でも、見つけたのはここでした」


「うん」


「だから、私の中ではここが起点です」


 しばらく無言だった。


 彼女がふと、こう続けた。


「マスター、もうひとつ言ってもいいですか」


「はい」


「私、もうここの二階を卒業しようと思います」


「卒業」


「ええ。本が出たら、別の街の少し広い部屋に引っ越します」


「そう、ですか」


「お店には、これからも来ます。客として」


「ええ」


「ただ、書く場所は私の家に戻したいと」


 頷いた。彼女が自分の場所を、自分で持ち始めた、ということだった。それは、いいことだった。


「いつ、ですか」


「来月の末です」


「うん」


「マスター、寂しそうな顔、しないでください」


「してませんよ」


「してます」


「そんなはずないです」


「鏡、見せましょうか」


 彼女は笑った。俺も、笑った。


 夜、店を閉めて、帰り道、空を見上げた。星がいくつか、出ていた。


 彼女が二階の机に通っていた時間は、たぶん二年と少しだった。


 長くも、短くもなかった。ちょうど、いい時間だった。


 彼女が二階を出ていく日、店の二階の机を、丁寧に布で拭いた。


 机には、ペン先のインクの跡が、いくつも薄く残っていた。書きすぎた人の机、というより、書ききった人の机だった。


 その机を、その後、誰にも貸さなかった。


 空けておいた。


 いつか、別の誰かが〈書く場所〉を必要とした時に、貸せるようにしておきたかった。


 本は、夏に出た。地味な装丁の、小さな本だった。


 俺は最初の一冊を、店のカウンターの隅の〈Cの便箋〉の隣に立てかけた。


 お客がたまに、それを読む。読み終えた人は、しばらく目を閉じる。


 目を開ける時、彼らの中で、何かが、ゆっくり息を吐いている、ように、見える。


 ブルーミング。


 その瞬間が、俺の店のいちばん好きな時間だった。

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