第二十八章 手紙
その冬、菊池がまた別の取材で来てくれた。今度は、彼の編集部が新しく企画した〈第三波コーヒーの担い手たち〉という連載の最初の回に〈Bloom〉を取り上げたい、ということだった。
俺は最初、断ろうとした。
菊池はそれを察したらしい。
「マスター、断られても構いません。ただ今度の企画は、マスターの店だけを取り上げるのではなく、十二人のバリスタを一人ずつ取り上げる長い連載なんです」
「十二人」
「ええ。日本中の小さなお店をやっている方々を」
「そう」
「マスターのお店、私の中ではその十二人の最初に置きたい場所なんです」
「光栄です」
「お受けいただけますか」
しばらく考えて、頷いた。
「条件があります」
「なんでしょう」
「俺の名前は、出してください。でも、写真は店の手元の写真だけにしてください。俺の顔は、出さないで」
「わかりました」
「もうひとつ。〈異邦の抽出師〉とか、そういう派手な見出しはなしで。地味な、いつも通りの見出しで」
「ええ。そのつもりです」
「では、お受けします」
菊池は深く頭を下げた。
二月の発売号で、四ページの記事が掲載された。タイトルは、〈毎日書く人。毎日淹れる人――〈Bloom〉、高瀬樹〉。
地味で丁寧な、いい記事だった。
俺の手元、カウンターの隅、ショーケースの豆、それから〈Cの便箋〉が貼ってある一隅も、菊池が撮っていった。
彼は〈Cの便箋〉について、記事の中で説明しなかった。ただ写真を、片隅に小さく載せただけだった。
それで十分だった。説明しないことが、いちばん誠実な書き方だった。
雑誌が出て、しばらくして、店の郵便受けに一通の手紙が届いた。差出人の住所はなく、名前もローマ字一文字で〈C〉とだけ書いてあった。
封を切ると、便箋が三枚。
「高瀬さん」
「雑誌、見た。お前の手元、ちゃんとお前の手元のままだ」
「俺はいま、地方の小さな町で地味な事務の仕事をしている。週末に、ノートを開く。書くことは相変わらず、難しい」
「だが、書こうとしてペンを握る時間が少しずつ、増えてきた」
「お前のあの〈Cの便箋〉という写真、雑誌で見て笑ってしまった。俺の便箋を、お前が店のカウンターに貼ってある」
「あれは、もう俺の便箋じゃない。お前の店の壁の、一部だ」
「だから、これからも好きに使ってくれ」
「明日も、書く」
「C」
しばらく、便箋を見ていた。
書こうとしてペンを握る時間が増えてきた、とあった。
彼は、進んでいた。たぶんたどたどしく、けれど確実に。
返事は、書かないことにした。彼が要らないと書いた以上、書かないのがいちばんの返事だった。
代わりに、その三枚の便箋を、店のカウンターの隅の、すでに貼ってある以前の便箋の隣に、丁寧にテープで止めた。
〈C〉のサインが、二つ並んだ。
それを見ながら、俺はカウンターの中で、ひとつ、頷いた。
数日後、客の一人が、ふとそれを見てこう言った。
「マスター、これ、何ですか」
「友人からの手紙、です」
「いい字、ですね」
「ありがとうございます」
その客は、それ以上、訊かなかった。彼が訊かないでくれたことが、ありがたかった。
夜、店を閉めて、新しい手帳のその日のページに、書いた。
〈C、二通目〉
書いて、消さなかった。
窓の外で、雪は、もう降っていなかった。代わりに、月が出ていた。
月を、しばらく見ていた。




