第二十七章 残された日々
冬が来た。〈Bloom〉は四年目の冬を、迎えていた。
雪の降る朝、店を開ける前、扉の前に朝刊があった。配達員が毎朝、入れていく。普段はちらりとしか見ない。だがその日、見出しの一つにふと目が止まった。
〈大手喫茶チェーン、品質管理担当を募集〉
その横の小さな囲み記事に、こう書いてあった。
〈業界団体、抽出基準の見直しへ。一部地域での過抽出の弊害が指摘される〉
短い、五段落の記事だった。匿名の業界関係者の話として、若いバリスタのデータが抽出基準の見直しのきっかけになったとあった。名前は伏せられていた。
俺は新聞をしばらく見て、それからいつも通り店の鍵を開けた。
昼前、菊池が客として来た。
〈月刊コーヒー〉の取材が何度かあったあと、彼は時々客としても来てくれるようになっていた。今日は、上着の襟に雪が残っていた。
「マスター、新聞見ましたか」
「ええ」
「あれ、たぶんマスターの記事の影響です」
「俺の」
「あの、〈待つというレシピ〉。あれがいくつかの業界の人の手に渡って、それから議論が始まりました」
「そう、ですか」
「いま、業界団体で抽出基準の見直しの会議が何度か開かれてます。私も傍聴で、何度か入りました」
「ご苦労様です」
「マスターのお名前は、出していません」
「いえ、出してくれていいですよ」
「いいんですか」
「もう、隠す気はないんです。ただ出ても、意味がないというだけで」
彼は頷き、エスプレッソをダブルで注文した。
「マスター、業界基準の話に興味ありますか」
「ないです」
「即答」
「ええ。基準が変わるなら、それでいい。誰が動かしたかは、誰にも覚えてもらわなくていい」
「なるほど」
「自分の店で、自分の客のためにいつも通り淹れるだけです」
「それが、いちばん強い生き方かもしれませんね」
「強いというのは、わからないですが」
彼はエスプレッソを飲みながら、しばらくカウンターを見ていた。
「マスター、聞いていいですか」
「はい」
「もう、誰にも認めてもらいたいと思いませんか」
しばらく考えた。
「思わない、と言うと嘘になります。完全には、消えていない」
「そうですか」
「ただ、認めてもらわなくても毎日ちゃんと淹れられるということが、わかりました」
「うん」
「〈認めて欲しい〉という気持ちと〈毎日ちゃんと淹れる〉という行為は、別物だと。最初は、その二つがぴったり重なっていたんです。でもいつの間にか、ずれていきました」
「ずれて、楽になったと」
「ええ。少なくとも俺は、楽になりました」
菊池は深く頷き、二杯目を注文した。
夜、店を閉めて自分のショットを引いた。
TDS、一・二九。EY、一八・七。いつもの数字。
手帳に、それを書いた。書きながら、ふと紙面の奥に何百冊もの過去の手帳が、蜃気楼のように見えた気がした。
最初の手帳。城島のラテアートの動画を横目で見ながら書いていた、二十三歳の俺。
二冊目、三冊目、四冊目。深夜のカウンターで一人で書いていた、二十五、二十六、二十七歳の俺。
燃やされた、五冊目。あの夜、灰になった二十八歳の俺。
そして、内側に革の断片を貼った新しい一冊目。〈Bloom〉開店の日に書いた、二十九歳の俺。
そしていま、四冊目。
全部、同じ手で書いた。同じペンで、ほぼ同じ温度で、同じカウンターの裏で。
でも、書く時の自分の姿勢は年々、ほんの少しずつ変わってきた。
最初は誰かに見つけてもらいたい、必死の前傾姿勢だった。
いまは誰にも見つけられなくていい、ゆるやかな後ろ向きの姿勢だ。
後ろ向きというのは、諦めではない。
自分の背中の方向にもう書いた何百ページもがあって、その重みが自分を安定させてくれている。
その重みが、〈書く〉ことの、本当の報酬だった。
ペンを置き、長く息を吐いた。
窓の外で、雪が、街灯の橙色に、ゆっくりと、降り続けていた。
その雪を、長い時間、見ていた。




