第二十六章 深い秋
その秋、徳田の温室で三度目の収穫があった。
今年は六十八粒。年々確実に、増えていた。
徳田は品種登録のための書類を、本格的に準備し始めていた。彼の目の下に、薄く隈ができていた。
「徳田くん、無理しすぎないで」
「いえ、楽しいんです。これ、たぶん自分の人生でいちばん、夢中になっている仕事です」
「そう」
「あの、それで」
彼はちょっといいにくそうに、続けた。
「品種の名前なんですけど、改めてご相談で」
「うん」
「〈Bloom〉と思ってたんですが、よく考えると地名や既存商標とぶつかる可能性があって」
「そうか」
「で、別の案をいくつか」
彼はメモを取り出して、五つほど候補を書いていた。
俺はしばらくそれを見て、ふとペンで別の言葉を書き加えた。
〈Lirae〉
徳田が、首を傾げた。
「これは」
「人の名前、です」
「誰の」
「俺の知っている、書く人。十一年、誰にも見せずに書いていた人」
「日本の方ですか」
「いえ、遠いところの人」
「そう、ですか」
徳田はしばらくそれを見て、それから頷いた。
「いい名前ですね。覚えやすくて、きれい」
「うん」
「〈Lirae〉で申請、しちゃっていいですか」
「俺の名前で、申請するつもりだった?」
「いえ、徳田農園と、共同で、と思ってましたが、提案者が高瀬さんなので、お名前」
「いや、いいよ。育てたのは、きみだ」
「でも、提案は高瀬さんで」
「俺の名前は、いい。徳田農園で、登録して」
「わかりました」
「ただ、品種のメモに〈異邦の友人より〉と一行、添えてもらえれば」
「異邦の友人」
「うん」
「了解です」
徳田は何も訊かずに、メモにそう書いた。
その夜、店で徳田からもらった生豆を、また一粒自家焙煎した。
ハンドドリッパーに敷き、湯を細く落とした。
粉が、息を吐くように膨らんだ。
ブルーミング、三十秒。
その三十秒の中で、ふとリラエの最後の声が舌の奥で浅く聞こえた気がした。
〈ありがとう〉
俺は声に出さずに答えた。
こちらこそ、と。
それから続けて、こう心の中で言った。
いま、きみの名前がこちらの世界の品種として残ろうとしている。
誰にも、説明しないまま。
けれど、確かに。
その夜、新しい手帳のその日のページに〈Lirae、登録準備中〉と書いた。
短い、一行。
でも、その一行の奥に、リラエの地下とカウンターの夜と徳田の温室と栗原さんの机と菊池の記事と、その他の書かれない無数の夜が、束になっている気がした。
ペンを置き、深く息を吐いた。
窓の外で秋の鳥が鳴いていた。
遠くで終電の踏切の音が響いた。
その音まで、いつも通りだった。
いつも通り、というのが俺にとっての最高のご褒美だった。




