第二十五章 もう一度の夜
四年目の梅雨の頃、栗原さんが書きかけの原稿を店のカウンターに置いていった。
封筒に入れていなかった。茶封筒に入れず、三つに折った原稿用紙を立てかけてこう言った。
「マスター、お時間がある時でいいので」
俺はそれを長い間見ていた。
彼女は一年以上、書く仕事を続けていた。短いエッセイをいくつかの文芸誌に投稿し、ふたつ掲載されていた。地味で、人目を引かない掲載のされ方だった。それが彼女らしいと思った。
その夜、店を閉めて、ランプをひとつ残して湯を沸かした。
彼女のためのいつもの抽出を、自分のために淹れた。ゲイシャ、九十一度。中細を半クリック細目に。最後の一滴が落ちる二十六秒、ただ湯の落ち方だけを見ていた。
カップを両手で包んで口に含み、それから原稿を開いた。
四百字詰めで、八枚あった。
タイトルは、〈夜のカウンターについて〉。
彼女は、誰かの店に通うことについて書いていた。お店の人と毎週毎日、顔を合わせる。だが互いの本名も住所も家族構成も、知らない。仕事の悩みも健康のことも、共有しない。それでも、ある時間帯のある椅子のあるカップを介してだけ、深く繋がっている関係がある。
その関係を、彼女は〈夜のカウンターの間柄〉と呼んでいた。
文章は抑制された、丁寧な散文だった。声を張らず、静かな指で書かれていた。読み終えた時、目の縁が湿っていた。
最後のページに、こう書いてあった。
〈書き手と淹れ手と読み手は、たぶん同じ仕事をしている。誰も見ていない夜の中で、自分の手にもう一度自分の体温を戻す仕事である〉
菊池の言葉とほぼ同じことを、彼女は別の言い方で書いていた。
俺は原稿を最初から、もう一度ゆっくり読み直した。
二度目に読み終えた時、ようやくあの夜の彼女の〈味が違う〉という言葉の意味が、本当の意味でわかった。
彼女は、ずっとこの一篇を書きたかったのだ。あの夜店に入ってきた瞬間から、書きたかったのだ。ただ書ける場所がそれまで世界のどこにもなかった、というだけのことだった。
翌日、彼女が店に来た時、カウンターを出て彼女の前に立った。
「読みました」
「どう、でしたか」
「すごく、よかったです」
彼女は何度か瞬きをし、それから笑った。
「ありがとうございます」
「もう一度、読ませてもらってもいいですか」
「もちろん」
彼女はそれだけ言って、いつもの席についた。
俺は二度目に読み終わった原稿を、もう一度読んだ。三度目だった。
文章は、変わらなかった。でも読むたびに、別の角度の光が当たった。
夜、店を閉めたあと、彼女に返す前に、新しい手帳のいちばん奥のページに、彼女の文章で一番好きだった一行を書き写した。
〈夜のカウンターは、誰のものでもない。だからいちばん深く、誰かのものになる〉
書いて、消さなかった。
彼女のためにではなく、自分のために書いた。
翌週、彼女はまた別の文章を持ってきた。
彼女は書く速度を、徐々に上げていた。けれど焦りはなかった。
ある夜、二階に湯を運んだ時、彼女が机の前でふと顔を上げた。
「マスター」
「はい」
「私、最近、書くこと自体が怖くなくなってきました」
「そうですか」
「最初、書くことは、とても怖かったんです。書いてしまったら、もう隠せなくなる、と」
「うん」
「でも、誰かが読まないかもしれない、と思える場所で書いていると、そっちの方が、自由でいられる」
「俺の店の二階、ですか」
「ええ。読む可能性のある人が、すぐそこにいる。でも、無理に読まれない。その距離が、ちょうどいい」
「そう、ですか」
「マスターのお店、本当にいい場所、ですね」
俺は何も言わずに、湯のコップを置き、降りた。
階段を降りる足音まで、控えめに、というのは、彼女の集中を切らさないための、無言の作法だった。
夜、店を閉めて、新しい手帳のその日のページに、ふと書いた。
〈書く場所がある人は、強い。書く場所を持つ人は、もっと強い。書く場所を、誰かに分けてもらえた人は、いちばん、強い〉
書いて、消さなかった。
書きながら、ふとリラエのことを思い出した。彼女は、地下三階の、誰にも分け与えられていない場所で、十一年、書き続けた。それでも、彼女は、最後に、自分の手帳を、俺の腕の中に渡した。
そういう瞬間が、たぶん〈分け与える〉ということなのだろう、と思った。
雨が、窓を細い線で引っ掻いていた。
梅雨が、終わろうとしていた。




