終章 蒸らし
二十二時を過ぎた厨房で、湯を捨てる音だけが鳴っている。
ステンレスの排水溝に落ちた湯が小さく息を吐いて、あとは水の管の奥へ消えていった。
左手でタイマーを止め、右手でショットを引いたばかりのカップを傾ける。液面で茶色の輪が二回ほど踊り、薄く崩れた。
TDS、一・二九。EY、一八・七。
数字は俺の指の関節を温めた。深夜のカウンターでこの数字に出会うとき、ようやく一日の終わりが始まる。
黒革のA5手帳を開く。新しいその一冊にもすでに、革の傷が走っていた。背の糸がほつれかけ、自分で縫い直したあとがある。〈Bloom〉が始まってからの、四冊目の手帳だった。
その日のページに、いつもの順で書いた。いつもの数値。
誰にも頼まれていない。誰も読まない。
ただ書く動作の最後でペンの腹がページを撫でる感触が、あの夜のままだった。
〈Bloom〉は、もう五年と少しが経つ。
立ち飲み四席の小さな店は、看板もメニューもほとんど変わらない。ただカウンターの隅に〈Cの便箋〉が二枚、貼られている。その隣に、栗原さんの本が立てかけてある。本は最近二冊目が出た。一冊目より少し厚かった。
二階の机は空いたままだった。掃除だけは毎週、欠かさずしていた。
徳田の温室の若木は、挿し木で四本に増えていた。〈Lirae〉という品種名で、正式に登録されていた。徳田農園のささやかな看板商品になりつつあった。
月に一度、その豆を店で出している。誰にも、説明しない。〈友人の温室で育った、品種不明の豆です〉と答える。
飲んだ客は皆、しばらく目を閉じる。目を開ける時、彼らの中で何かがゆっくり、息を吐いているように見える。
ブルーミング。
その瞬間が、俺の店のいちばん好きな時間だった。
扉の鈴が鳴った。
顔を上げると、栗原さんが入ってきた。閉店、二十分後だった。
「すみません、もう閉まってますよね」
「いえ、あと十五分は」
俺はいつかの自分の台詞を繰り返していた。
彼女は、軽く笑った。
「いつもの、お願いします」
「ゲイシャ、ですね」
「はい」
湯を九十一度に整える。粒度を半クリック、細目に。ハンドドリップ。
最初の三十グラムを落とす。蒸らし、三十秒。
粉が息を吐くように、膨らんだ。
その三十秒を、彼女と二人で見つめていた。
言葉は、なかった。
最後の一滴が落ちた。二十六秒。
カップを彼女に差し出す。彼女は両手で受け取り、香りを長く嗅いでから、ゆっくり口に含んだ。しばらく目を閉じていた。
「マスター」
「はい」
「あなたの淹れる時、やっぱり味が違う」
俺は何も答えなかった。
代わりに、布巾でカウンターの水滴を拭いた。
彼女はそれだけ言って、本を鞄から出した。今度は、彼女の本ではなかった。誰か別の作家の、薄い詩集だった。
俺はもう一杯、自分のためのコーヒーを淹れた。
二人、並んで同じ味を飲んだ。
「マスター」
「はい」
「私が初めて〈味が違う〉と言った夜のこと、もう何年前ですか」
「数えていません」
「私も、です。でも、ずいぶん」
「はい」
「あの夜、私は本当に誰でもよかったんです」
「そうでしたね」
「でもいま、もう誰でもよかったんじゃない、と思います」
「はい」
「マスターでなければ、私は書き始められなかった」
俺はそれに、首を振った。
「いいえ。あなたは、もともと書く人でした」
「マスターはいつも、そう言いますね」
「本当にそう、思っているからです」
「ありがとうございます」
彼女は本を読み終えるまで、ゆっくりゆっくりコーヒーを飲んだ。閉店時間を二十分ほど、過ぎていた。
扉の前で彼女は、ふと振り返った。
「マスター」
「はい」
「明日も、来ます」
「お待ちしています」
扉の鈴が、鳴った。
彼女が、出ていった。
俺はしばらく、扉を見ていた。
それから、もう一度湯を沸かした。
今度は自分のために、いつもの最後のショットを引く。
TDS、一・二九。EY、一八・七。ゴールデンカップ・レンジのど真ん中。
両手で包み、香りを吸った。
いつかの覚星石のフローラルが、ふと混じった気がした。
いや、混じっていた。もう気のせいでは、なかった。
舌の奥に、もう一つの世界の味の記憶がずっと住んでいる。
その記憶が、こちらの毎日のショットにほんの〇・一だけ、彩りを添えている。
誰にも説明しない、その〇・一。
でも、毎日客の誰かが、それを無意識に感じ取っているはずだ。
〈味が違う〉と彼女が、また言ってくれた。
俺は明日もたぶん、別の客の〈味が違う〉という無意識の感想を、受け取るだろう。
そのたびに、黙って頷くだろう。
手帳に、その日の最後の一行を書いた。
〈いつもの、夜〉
いつものペンの走り。いつもの紙の音。書きすぎず書き足りなくない、ちょうどの量。
窓の外で、夜の虫が鳴いていた。
季節はまた夏に、戻ろうとしていた。
もう、書くことに囚われてはいない。
書く、という動作はいまの俺にとって、〈待つ〉ことの別名だった。
今日の数字を待つ。今日の客の感想を待つ。今日の〇・一を待つ。
待つ、という時間の中にすべての答えが、ある。
書く、というのは、その〈待つ〉時間のしるしを紙にほんの少し残す、というだけのことだった。
俺は、ペンを置いた。
最後の一杯のカップを、両手でしばらく包んでいた。手のひらに、まだ温度が残っていた。
その温度が、五年前の深夜のカウンターの、二十八歳の俺の手のひらの温度と、ほぼ同じだった。
ほぼ同じ、というのがいいと思った。
完全に同じではない。
あの夜から、ずいぶん歩いた。歩きながら、たくさんのことが変わった。手帳が、燃えた。覚星石を見た。リラエに、会った。
でも、深夜のカウンターで誰のためでもないショットを引いてTDS値を確かめる、その指の動作だけは変わらなかった。
その変わらなさが、俺の人生の芯だった。
扉の前で、もう一度振り返った。
二階の机は、空いたままだ。〈Cの便箋〉が二枚、貼ってある。栗原さんの二冊の本が、立てかけてある。徳田の若木の写真が、額に入って壁にささやかに掛けてある。
全部、ちゃんとここにある。
全部、説明しなくてもここにある。
俺は店の最後の灯りを落とした。
扉の鍵をかけた。
帰り道、空を見上げた。
星がいくつか、出ていた。
大陸の星空とは、配置が違う。
でも同じ、宇宙の星々だ。
そのどこかで、リラエがいま息をしている。
城島がいま、ペンを握っている。
徳田がいま、温室の湿度を調整している。
菊池がいま、誰かの別の店を訪ねている。
あの蔵書塔の五十年前の母親が、いま誰かの記憶の奥にいる。
書く人が、書く人を待っている。
淹れる人が、淹れる人を待っている。
読む人が、読む人を待っている。
誰も独りでは、ない。
ただ、独りで、淹れる夜が、ある、というだけ、のこと、だった。
深く、息を吸った。
夏の湿った夜の匂い。
大陸の、夜の匂いも、たぶんこんな匂いだ。
家に向かって歩き始めた。
手帳が、上着の、内ポケットで、軽く温かかった。
いつかの二十八歳の、独りの夜の、深夜のカウンターから、ここまで、長く歩いてきた。
でも振り返ると、ほんの一瞬のように思える。
ブルーミングの三十秒のような、長さだった。
その、三十秒が、終わった、いま、俺は、自分の人生の、二回目の湯を、ゆっくり自分に、注ぎ始めている。
最後の一滴がいつ落ちるか、わからない。
でも、それまで、ただ丁寧に、淹れる。
誰にも見られなくても。
誰にも頼まれなくても。
ただ、毎日ちょうどの量を、書く。
ただ、毎日ちょうどの量を、淹れる。
それでいい。
それで、もう十分、だった。
角を曲がって、住宅街の路地に入った。
夜の街灯が、ぽつぽつと立っている。
ある家の二階の窓から、ピアノのゆっくりとした音階が漏れてきた。子供の練習だろう。何度もつっかえて、何度も戻る。戻りながら、それでも最後まで弾く。
その繰り返しが、誰かの〈書きはじめの夜〉に似ていた。
心の中で頷いた。
頑張れ、とは言わなかった。頑張れ、では足りなかった。
ただ、聞いている人がここに一人いるよ、と心の中で伝えた。
その音はもちろん、聞こえなかった。
でも伝えなくても、伝わる夜がある。
俺の、向こうの世界の、リラエが、地下三階で、十一年、独りで、書いていた、あの夜にも、たぶん誰かの、こういう、心の中の頷きが、届いていた。
俺はそれを、信じる。
信じる、ということが、もう暮らしの、一部に、なっていた。
家に着いた。
ドアを開ける前に、上着の内ポケットに手を入れた。
手帳の革の表紙の感触。
その奥に、もう一つ燃え残った古い表紙の断片。
二つを、軽く握って、息を吐いた。
大丈夫だった。
明日も店を開ける。明日も、いつもの抽出を、する。明日も、いつもの夜が来る。
それでいい。
ドアを開けて、家の中に入った。
暗い廊下の奥で、台所の青白い夜灯だけがついていた。
その光に向かって、ゆっくり歩いた。
長い長いブルーミングの三十秒がようやく終わって、その先の自分の二回目の湯が、ゆっくりと注がれ続けている、その夜のことを、
俺は、たぶん誰にも説明しない。
ただ、明日の、最初のショットの、TDSが、いつもの一・二九で、あれば、それでいい。
それで十分、だった。
ドアを内側から閉めた。鍵をかけた。
台所まで歩いて、灯りをひとつつけた。
水道の蛇口をひねって、コップに水を汲んだ。
ゆっくり飲んだ。
舌の上に、まだ最後のショットの、フローラルが、残っていた。
覚星石の青の記憶。
誰にも説明しない毎日の〇・一。
コップを流しに置いた。
台所の灯りを消した。
寝室まで、暗い廊下を歩いた。
寝台に、入る前に、もう一度上着の、内ポケットを、確かめた。
手帳がある。燃え残った古い表紙の断片が、ある。
その両方が、いつも通り温かかった。
目を閉じた。
遠くで、終電の踏切の音が響いた。
その音まで、いつも通りだった。
いつも通り、というのが、俺にとっての最高のご褒美だった。
夜が深まった。
眠りが、ゆっくり訪れた。
夢の中で、俺はまた、あの、深夜のカウンターに、戻っていた。
二十八歳の、独りの自分が、湯を捨てている。
彼は俺に、気づかない。俺も彼に、声をかけない。
ただ隣に立って、湯気の立つその瞬間を、一緒に見ている。
彼の手の震えに、気づいた。でも彼は震えながら、ちゃんと書いていた。
TDS。湿度。気温。グラインダーのクリック数。
誰にも頼まれない、その数字を。
心の中で、彼にこう言った。
いいよ、それで。
彼は聞こえなかった、はずだ。
でもペンの走りが、ほんの〇・一だけ滑らかになった気がした。
それで十分、だった。
夜が明けた。
起きて、また店に、向かった。
扉を開けた時、いつもの湿度の匂いが、迎えてくれた。
深く、息を吸った。
今日も、いつもの夜まで、丁寧に淹れる。
いつものように。
(了)




